歩いていると、松濤園の隅の木陰に置かれたベンチに、女性がひとり、腰掛けていた。
 黒いワンピースに、薄く茶色の入ったメガネをかけた老女だった。
「どうかなさいましたか」
 近づきながら、細田は声をかけた。
 すると老女は、ひとこと、返した。
「見て、いたんです」
「ああ、申し訳ございません、工事の音、耳障りではありませんか」
「いいえ。ちょっと、暑さに参ってしまって、それで、男性の方がこちらまで連れてきてくださったんです」
 色白の、痩せた女性だった。
 細田は自分がまだ若かったころの祖母の姿をその女性に重ねた。痩せているのに、骨ばった腕には成人男性でもかなわないような生命力がみなぎっていた祖母の姿に。
「熱中症には気をつけないといけませんね」
 当たり障りのない言葉をかけてから、細田も日陰に足を進めた。
「こちらの方ですか?」と老女は細田に聞いた。ええ、と答えると、「今日はよろしくお願いします」と言われた。
「喜寿の御祝いで、孫たちがね、連れてきてくれたんです」
「ああ、内野様ですね」
「あら、うれしい。おぼえてくださってるのね」
「はい。お待ちしておりました。お食事まで、まだしばらく時間がありますが」
「そう、それでね、ひさしぶりだったから、すこし散歩をと思ったんですけど、そこで、ふらついてしまって」
「男性、というのは、職員ですか?」
「ええ、そうですよ、お水をね、持ってきてくださるそうです」
 適切な対処だと、細田は感心した。
「喜寿でいらっしゃるんですね。おめでとうございます」
「ありがとうございます。還暦のときにも、ここで、御祝いをあげてもらったんですよ」
「そうでしたか」
「ええ、そのときは、息子夫婦が連れてきてくれて、孫たちなんか、まだ小学生だったのに、喜寿のときにまたここに来ましょうって、言ったんですって、わたしが。それをね、おぼえててくれたらしくて、もういやね、本人はまったくおぼえていないのに」
 弱気、というのではなく、いかにも冗談めかした口調に、細田はすこし安心した。自分の祖母は一〇〇まで生きましたよ。そう話してみるべきか考えてみて、よすことにした。励ましにもなるかもしれないが、しかし、祖母のことを口に出したら最後、葬式から戻ったばかりであることまで喋ってしまいそうだ。
「いい、お孫さんですね」
 それもまた、当たり障りのない言葉のつもりだったが、声にしながら細田は、自身を顧みずにいられなかった。俺は、いい孫だっただろうか、と。内野婦人が建物のほうに目を向けているのを確かめてから、細田はハンカチを取り出して頬と首を拭った。汗は、ほとんどかいていなかった。
「あれは、建て直すのかしら」と老女が口にした。
 改修工事であることを告げ、一年後には再び、そこで食事を楽しむこともできますと伝えた。
「次は、傘寿ですね」と細田は言う。
「その次は米寿。ひ孫が、いるかもしれませんね」と婦人も笑った。
「どんどん盛大になっていきますね」
「ああ、楽しみ」
 途端に、婦人の表情に光がさして見えた。
「とっておきの御祝いをご用意させていただきますよ」
「じゃあ、予約、して帰らないと。でも、十年先なんて、受け付けてらっしゃるかしら」
 細田は忠実な下僕のように婦人の前でしゃがみ、自信をもってこう答えた。
「おまかせください。二十四年先まで、プランがあります」
「あら、一〇一歳だわ」
 婦人はまた嬉しそうにほほえんだ。
 そのとき、細田の背後から「おまたせしました!」と朗らかな声が響いてきた。波場だった。胸にミネラルウォーターの五〇〇ミリリットルボトルを三本、かかえている。
「あ、細田さん、なにしてるんですか」
「内野さんとすこしお話を。波場君だったのか、内野さんをこちらに案内したのは」
「ええ、あ、どうぞどうぞ、水です、ゆっくり飲んでくださいね」
「ありがとう」と婦人が一本を受け取る。
「で、残りの二本はなんだい。きみが飲むのか?」
「え? ああ、内野さん、飲まれますか?」
「いえ、これで充分」
「波場君、きみね」
 注意しようと口を開いたのだが、それ以上の言葉が出なかった。
「じゃあ、はい、細田さんのぶん」
 ペットボトルを一本、押し付けられた格好の細田は、黙ってキャップをあけて、冷たい水を飲んだ。
 大きく笑う波場を見ながら、細田は計算をはじめていた。
 なあ、波場君、二十五年プランから始めるのはどうだろう?

作:中山 智幸
※この物語はフィクションです。

ずっとここにある 高宗千鶴

登場人物一覧はこちら

第一話
ずっとここにある
第二話
サインの輪郭
第三話
手助けの手

実在の人物・出来事によく似ていますが、この物語はフィクションであり、人物名はすべて架空のものです。
ただし、御花を愛する心と、お越しいただく皆様への思いは、現実と変わりありません。

実在の人物・出来事によく似ていますが、この物語はフィクションであり、人物名はすべて架空のものです。ただし、御花を愛する心と、お越しいただく皆様への思いは、現実と変わりありません。

 歩いていると、松濤園の隅の木陰に置かれたベンチに、女性がひとり、腰掛けていた。
 黒いワンピースに、薄く茶色の入ったメガネをかけた老女だった。
「どうかなさいましたか」
 近づきながら、細田は声をかけた。
 すると老女は、ひとこと、返した。
「見て、いたんです」
「ああ、申し訳ございません、工事の音、耳障りではありませんか」
「いいえ。ちょっと、暑さに参ってしまって、それで、男性の方がこちらまで連れてきてくださったんです」
 色白の、痩せた女性だった。
 細田は自分がまだ若かったころの祖母の姿をその女性に重ねた。痩せているのに、骨ばった腕には成人男性でもかなわないような生命力がみなぎっていた祖母の姿に。
「熱中症には気をつけないといけませんね」
 当たり障りのない言葉をかけてから、細田も日陰に足を進めた。
「こちらの方ですか?」と老女は細田に聞いた。ええ、と答えると、「今日はよろしくお願いします」と言われた。
「喜寿の御祝いで、孫たちがね、連れてきてくれたんです」
「ああ、内野様ですね」
「あら、うれしい。おぼえてくださってるのね」
「はい。お待ちしておりました。お食事まで、まだしばらく時間がありますが」
「そう、それでね、ひさしぶりだったから、すこし散歩をと思ったんですけど、そこで、ふらついてしまって」
「男性、というのは、職員ですか?」
「ええ、そうですよ、お水をね、持ってきてくださるそうです」
 適切な対処だと、細田は感心した。
「喜寿でいらっしゃるんですね。おめでとうございます」
「ありがとうございます。還暦のときにも、ここで、御祝いをあげてもらったんですよ」
「そうでしたか」
「ええ、そのときは、息子夫婦が連れてきてくれて、孫たちなんか、まだ小学生だったのに、喜寿のときにまたここに来ましょうって、言ったんですって、わたしが。それをね、おぼえててくれたらしくて、もういやね、本人はまったくおぼえていないのに」
 弱気、というのではなく、いかにも冗談めかした口調に、細田はすこし安心した。自分の祖母は一〇〇まで生きましたよ。そう話してみるべきか考えてみて、よすことにした。励ましにもなるかもしれないが、しかし、祖母のことを口に出したら最後、葬式から戻ったばかりであることまで喋ってしまいそうだ。
「いい、お孫さんですね」
 それもまた、当たり障りのない言葉のつもりだったが、声にしながら細田は、自身を顧みずにいられなかった。俺は、いい孫だっただろうか、と。内野婦人が建物のほうに目を向けているのを確かめてから、細田はハンカチを取り出して頬と首を拭った。汗は、ほとんどかいていなかった。
「あれは、建て直すのかしら」と老女が口にした。
 改修工事であることを告げ、一年後には再び、そこで食事を楽しむこともできますと伝えた。
「次は、傘寿ですね」と細田は言う。
「その次は米寿。ひ孫が、いるかもしれませんね」と婦人も笑った。
「どんどん盛大になっていきますね」
「ああ、楽しみ」
 途端に、婦人の表情に光がさして見えた。
「とっておきの御祝いをご用意させていただきますよ」
「じゃあ、予約、して帰らないと。でも、十年先なんて、受け付けてらっしゃるかしら」
 細田は忠実な下僕のように婦人の前でしゃがみ、自信をもってこう答えた。
「おまかせください。二十四年先まで、プランがあります」
「あら、一〇一歳だわ」
 婦人はまた嬉しそうにほほえんだ。
 そのとき、細田の背後から「おまたせしました!」と朗らかな声が響いてきた。波場だった。胸にミネラルウォーターの五〇〇ミリリットルボトルを三本、かかえている。
「あ、細田さん、なにしてるんですか」
「内野さんとすこしお話を。波場君だったのか、内野さんをこちらに案内したのは」
「ええ、あ、どうぞどうぞ、水です、ゆっくり飲んでくださいね」
「ありがとう」と婦人が一本を受け取る。
「で、残りの二本はなんだい。きみが飲むのか?」
「え? ああ、内野さん、飲まれますか?」
「いえ、これで充分」
「波場君、きみね」
 注意しようと口を開いたのだが、それ以上の言葉が出なかった。
「じゃあ、はい、細田さんのぶん」
 ペットボトルを一本、押し付けられた格好の細田は、黙ってキャップをあけて、冷たい水を飲んだ。
 大きく笑う波場を見ながら、細田は計算をはじめていた。
 なあ、波場君、二十五年プランから始めるのはどうだろう?

作:中山 智幸
※この物語はフィクションです。

ずっとここにある 高宗千鶴

登場人物一覧はこちら

第一話
ずっとここにある
第二話
サインの輪郭
第三話
手助けの手

実在の人物・出来事によく似ていますが、この物語はフィクションであり、人物名はすべて架空のものです。
ただし、御花を愛する心と、お越しいただく皆様への思いは、現実と変わりありません。

実在の人物・出来事によく似ていますが、この物語はフィクションであり、人物名はすべて架空のものです。ただし、御花を愛する心と、お越しいただく皆様への思いは、現実と変わりありません。