一〇〇年先を考えるのは立派なことだと、細田もそこは認めるのだが、しかし、一足飛びにそれをゴールに設定するのは、ずれている、とも思う。社長以下、従業員たちもそれはわかっているのだろうが、なにしろ三〇〇年、四〇〇年といった歴史を持つ施設であるがゆえに、「この先の一〇〇年」という概念にも現実味がついてまわる。
 御花に来るまで、細田はいくつもの新規ホテルの立ち上げに関わってきた。主に数字の面から、いかにホテル経営を軌道に乗せるかを検討し、適切なレールを敷くことに腐心してきた。かつての上司から御花の前社長を紹介され、何度か顔をあわせて言葉を交わすうちに、御花に勤める気持ちをかためたのには、そろそろ自分もひとところに腰を落ち着けたいという考えもあった。老舗であれば、経営の土台もしっかりしているだろう、と。
 予想と違い、赴任当初は、経営も、人事も、勤務シフトも、およそすべての領域に無駄と思える慣習がはびこっており、そこに改善の手を入れようとすると必ず反発が起きた。覚悟していたが、それ以上だった。自分の相手は個別の課題よりも、歴史なのだと痛感した。
 まあ、いい。いつでもやめてやる。
 自身の生涯設計を練り直し、感情に流れることなく、当面の課題をひとつ、ひとつ、クリアしていった。そうするうちに理解者も現れ、衝突の頻度も減っていった。いつでもやめてやる、という思いが、自分の定年まで、に軟化したのが、皆の協力の賜物であることを誰も知らないし、細田もわざわざ口にはしない。

 地元の土産をほかの部署にも持っていこうと、細田は事務所を出た。厨房に行き、団体客用のせいろ蒸しを作っている料理人たちに配りながら、新しいデザートの参考にでも、という言葉を添えた。総料理長は厳しい顔つきで最中を口に運んだ。若手の料理人が、あー、うまいっすね、と軽い調子で述べた。和服姿の女性スタッフたちが忙しく動いていたので、そちらには土産を持ってきたことだけ告げておいた。
「きょうはお祝いごとが多くて」と総料理長が言った。
「四件、重なっていますね」と細田が応じた。
「細田さん、数字、間違えることはないのかい」
「ありますよ。肝心なのは間違わないことじゃなくて、即座に修正していくことです」
「ふん。料理は間違えたらおじゃんだからな」
「数字は、おじゃんにできませんから。ああ、そうだ、先日の新メニュー、あれ、小鉢をひとつ減らしませんか。気になってたんですけど、葬儀の件で伝え漏れていました」
 総料理長は靴のつま先を見ながら顔をほころばせた。
「予算面でもあわない、か?」
「それだけではありませんが、検討、よろしくお願いします」
 それから何ヶ所か土産を配り終えて、空き箱を小脇に、細田は庭へ出た。人がいないのを確かめて、深呼吸する。ふと、空き箱を見下ろした彼は、もう一度、こんどは短く、深呼吸した。
 そんなつもりではないが、土産物のついでに各所に意見をちらしてくるのは、アメとムチ、という印象がなくもない。最中ひとつで人心を掌握できるはずもないが、いつから自分は、そんなふうに、ムチだけでなくアメを駆使するようになったのだろう。
 ふう、と、またひとつ息を吐いた。
 そのとき脳裏を通過していったのは、かつての勤め先での失敗たちだった。ひとつひとつは些細なミスで、どれも挽回できなかったわけではない。しかし、本当のところはわからなかった。きっと、知らないところで、誰かが自分を助けてくれたのにちがいない。
 細田は、からっぽの手のひらを見た。
 生命をこの世へ産み出す手助けに生涯を捧げた祖母のことを思い出す。
 赤ん坊は無理でも、自分にも、なにかを生む手伝いはできるのだろうか。
「しかし、一〇〇年とは」
 実現不可能だと否定したはずなのに、細田はまた、波場の企画書を思い出していた。
 波場という男は面白い人間で、恵まれた体格によく似合う大言壮語をやたらと口にする。ほとんどが非現実的な理想論、いや、夢想と呼んだほうがよさそうな言葉なのだが、しかし、まれにそれを実現までひっぱってくることがあった。旅行代理店と粘り強くかけあって大口の顧客を獲得したこともある。昨年の春には、御花という施設の枠を飛び越えて、柳川の街全体を世界にアピールする企画もぶちあげた。そんな無茶なと、細田は否定的だったがその企画も、今では実施に向け大勢が力を貸してくれようとしている。
 太陽からやってきた男が、なんとかがんばって地球のスケールにあわせて動こうとしているみたいに、細田は感じることがあった。「波場君は、太陽に住んでればよかったのにな」と、なにかの折、本人に向けて言ったこともある。波場も波場で「燃えますねえ、それ」と、至極真面目な顔で返した。
 とはいえ波場君も地球人だ。すでに四十を超えているのだし、一〇〇年プランが軌道に乗ったとしても、その成功を、最後の大盛り上がりを、本人が目にすることはないだろう。五十年プランならいけるだろうか。三十年ならどうだ。
 個々のケースにおける経費の詳細を思索しながら、細田は庭を横切るように歩いていた。八月の空は水色に澄んでいて、大広間の改修作業の音も、どこか爽やかに響いた。かつての職場でも補修工事はあったが、もっと気忙しい音だったように記憶している。あれは、一刻も早く傷を塞ぐための工事だった。こちらは、今ある施設をできるだけ長く保たせようとする努力だ。ほかとは違う時間の流れ方が、そんなところにも表れているのだと、細田はふと思った。

 一〇〇年先を考えるのは立派なことだと、細田もそこは認めるのだが、しかし、一足飛びにそれをゴールに設定するのは、ずれている、とも思う。社長以下、従業員たちもそれはわかっているのだろうが、なにしろ三〇〇年、四〇〇年といった歴史を持つ施設であるがゆえに、「この先の一〇〇年」という概念にも現実味がついてまわる。
 御花に来るまで、細田はいくつもの新規ホテルの立ち上げに関わってきた。主に数字の面から、いかにホテル経営を軌道に乗せるかを検討し、適切なレールを敷くことに腐心してきた。かつての上司から御花の前社長を紹介され、何度か顔をあわせて言葉を交わすうちに、御花に勤める気持ちをかためたのには、そろそろ自分もひとところに腰を落ち着けたいという考えもあった。老舗であれば、経営の土台もしっかりしているだろう、と。
 予想と違い、赴任当初は、経営も、人事も、勤務シフトも、およそすべての領域に無駄と思える慣習がはびこっており、そこに改善の手を入れようとすると必ず反発が起きた。覚悟していたが、それ以上だった。自分の相手は個別の課題よりも、歴史なのだと痛感した。
 まあ、いい。いつでもやめてやる。
 自身の生涯設計を練り直し、感情に流れることなく、当面の課題をひとつ、ひとつ、クリアしていった。そうするうちに理解者も現れ、衝突の頻度も減っていった。いつでもやめてやる、という思いが、自分の定年まで、に軟化したのが、皆の協力の賜物であることを誰も知らないし、細田もわざわざ口にはしない。

 地元の土産をほかの部署にも持っていこうと、細田は事務所を出た。厨房に行き、団体客用のせいろ蒸しを作っている料理人たちに配りながら、新しいデザートの参考にでも、という言葉を添えた。総料理長は厳しい顔つきで最中を口に運んだ。若手の料理人が、あー、うまいっすね、と軽い調子で述べた。和服姿の女性スタッフたちが忙しく動いていたので、そちらには土産を持ってきたことだけ告げておいた。
「きょうはお祝いごとが多くて」と総料理長が言った。
「四件、重なっていますね」と細田が応じた。
「細田さん、数字、間違えることはないのかい」
「ありますよ。肝心なのは間違わないことじゃなくて、即座に修正していくことです」
「ふん。料理は間違えたらおじゃんだからな」
「数字は、おじゃんにできませんから。ああ、そうだ、先日の新メニュー、あれ、小鉢をひとつ減らしませんか。気になってたんですけど、葬儀の件で伝え漏れていました」
 総料理長は靴のつま先を見ながら顔をほころばせた。
「予算面でもあわない、か?」
「それだけではありませんが、検討、よろしくお願いします」
 それから何ヶ所か土産を配り終えて、空き箱を小脇に、細田は庭へ出た。人がいないのを確かめて、深呼吸する。ふと、空き箱を見下ろした彼は、もう一度、こんどは短く、深呼吸した。
 そんなつもりではないが、土産物のついでに各所に意見をちらしてくるのは、アメとムチ、という印象がなくもない。最中ひとつで人心を掌握できるはずもないが、いつから自分は、そんなふうに、ムチだけでなくアメを駆使するようになったのだろう。
 ふう、と、またひとつ息を吐いた。
 そのとき脳裏を通過していったのは、かつての勤め先での失敗たちだった。ひとつひとつは些細なミスで、どれも挽回できなかったわけではない。しかし、本当のところはわからなかった。きっと、知らないところで、誰かが自分を助けてくれたのにちがいない。
 細田は、からっぽの手のひらを見た。
 生命をこの世へ産み出す手助けに生涯を捧げた祖母のことを思い出す。
 赤ん坊は無理でも、自分にも、なにかを生む手伝いはできるのだろうか。
「しかし、一〇〇年とは」
 実現不可能だと否定したはずなのに、細田はまた、波場の企画書を思い出していた。
 波場という男は面白い人間で、恵まれた体格によく似合う大言壮語をやたらと口にする。ほとんどが非現実的な理想論、いや、夢想と呼んだほうがよさそうな言葉なのだが、しかし、まれにそれを実現までひっぱってくることがあった。旅行代理店と粘り強くかけあって大口の顧客を獲得したこともある。昨年の春には、御花という施設の枠を飛び越えて、柳川の街全体を世界にアピールする企画もぶちあげた。そんな無茶なと、細田は否定的だったがその企画も、今では実施に向け大勢が力を貸してくれようとしている。
 太陽からやってきた男が、なんとかがんばって地球のスケールにあわせて動こうとしているみたいに、細田は感じることがあった。「波場君は、太陽に住んでればよかったのにな」と、なにかの折、本人に向けて言ったこともある。波場も波場で「燃えますねえ、それ」と、至極真面目な顔で返した。
 とはいえ波場君も地球人だ。すでに四十を超えているのだし、一〇〇年プランが軌道に乗ったとしても、その成功を、最後の大盛り上がりを、本人が目にすることはないだろう。五十年プランならいけるだろうか。三十年ならどうだ。
 個々のケースにおける経費の詳細を思索しながら、細田は庭を横切るように歩いていた。八月の空は水色に澄んでいて、大広間の改修作業の音も、どこか爽やかに響いた。かつての職場でも補修工事はあったが、もっと気忙しい音だったように記憶している。あれは、一刻も早く傷を塞ぐための工事だった。こちらは、今ある施設をできるだけ長く保たせようとする努力だ。ほかとは違う時間の流れ方が、そんなところにも表れているのだと、細田はふと思った。