事務所には広告代理店の営業が訪れていて、広報と打ち合わせの最中だった。代理店の男は名を仙道といい、三十にもならない若手だが仕事ぶりは確かで、あれこれ企画を持ってきては実現のため奔走してくれる。
「ああ、そうだ、仙道くん、夏のお祭りの件でちょっと相談したいことがあるんだけど」と賢一郎が声をかけると、仙道はしわくちゃの笑顔で「まかせてください!」と答えた。
「まだ何も伝えてないよ」
「でも、まかせてください。なんたって僕、集客の水先案内人ですから」
 仙道の全力ぶりに、賢一郎はすこし、緊張をおぼえる。彼が初めて御花にやってきた日、名刺交換のあとで「僕、川下りの船頭になるのもいいですよね、苗字が仙道だし」と言った。それを受けて賢一郎が返した。
 ——きみには集客の水先案内人になってもらわないと。
 以来、仙道は折りに触れ、その言葉を持ち出してくる。
 なにげなくこぼした言葉が、だれかの人生を左右することがある。そのことは、賢一郎も痛いほどわかっていた。ドラマの世界を離れたきっかけも、そうだった。ともに新人として働いていた太田が、激務の合間を縫って脚本家養成講座に通い、自分の作品を周囲に売り込むようになった。そしてついに、深夜枠のショートドラマで脚本家デビューを果たした。「小川も書いてるんだろう」と太田に見抜かれて、転職を考えはじめた。いつか脚本を書いてみたい、その気持ちは確かにあったが、人生経験が足りない気がしていた。だから、誰にも言わずにいた。太田はいかにも何気ないふうに「小川も書いてるんだろう」と言った。それが、ドラマを離れた原因のすべてではない。決定打、とも違う。でも、大きなきっかけだった。高校時代、好意を抱いていた女子から「小川くんって、あくびするとき目ぇ閉じないよね」と言われて以来、あくびが不自然になったのと同じだ。
 人と言葉のあいだにも、縁はある。良縁もあれば、腐れ縁も。いいことばかりではもちろんないが、生きてさえいれば、いずれ笑い話にできるかもしれない。すべての努力は、未来で笑うためなのだ。そう、賢一郎は考える。

 忙しくしているうちに昼食を食べ逃した。いつのまにか雨がやみ、外は陽も出てきたようだった。
 午後の打ち合わせは秋に挙式と披露宴を予定しているカップルで、新郎新婦そろっての来訪のはずが、やってきたのは女性だけだった。新郎は急な仕事の呼び出しで、どうしても時間を工面できなかったという。
「すみません、事前に連絡できなくて」と新婦となる女性は喫茶室の椅子に座る前に頭を下げた。
「いえいえ、お仕事は大事ですし、まだ時間もありますから。どうぞおかけになられてください」
 その日は二回目の打ち合わせで、披露宴の内容を具体的に詰めていく予定だった。新婦となる女性は名前をミナミといった。
「あれから、披露宴でやりたいことをリストにあげていったんですけど、なんだかわからなくて。うちの、あの、彼氏っていうか、夫っていうか」
「エイスケさんですね」
「はい。あっちは、カラオケとか、そういう余興みたいのもあったほうがいいんじゃないかって言うんですけど、でも、あんまりお仕事関係の人は呼ぶ予定じゃなくて、うち、親族が多いんで。だから、なんか、叔父さんとか従兄弟とかの余興って、あんまり、なくてもいいかなって。どう思います?」
 初回の打ち合わせで、招待客の半分以上が親族になりそうだという話は聞いていた。
「あんまり無理に余興ですとか、そういった時間を設ける必要はないと思いますよ。それだけの親族が一堂に会する機会もあまりないでしょうし」
「そうですね」
「そうすると、皆さん、ご歓談のほうに花を咲かせるかもしれません。ですから、できるだけ、リラックスして過ごせる時間で構成されるのもいいんじゃないかと思います。たとえば、高砂のほかに、各テーブルにあらかじめ新郎新婦の席を用意しておいて、そちらをひとつずつ巡っていきながら、多くの時間をご歓談にあてるというスタイルも」
 説明の傍ら、賢一郎はファイルの一冊を開いてページをめくった。手をとめたところには、新郎新婦が招待客に囲まれ、心の底からの笑顔を浮かべている写真があった。
「すごくしあわせそう」
 ミナミはそっと手をのばしてきて、ファイルのページをめくった。つぎに現れたのは、互いの両親と爆笑している新郎新婦だった。その一枚を目にすると、ミナミの頬に涙がこぼれてきた。
「ああ、いいですね、これ」
 ハンカチを取り出し、目元を拭ったあとで、ミナミは自分の生い立ちを語り始めた。幼いころに父親を亡くした。父親のいない暮らしを支えてくれたのは、父方の祖父母だった。母子家庭としての十年が過ぎ、母に再婚話が持ち上がったとき、亡き父の両親もそれを歓迎してくれた。新しく父親となった男性も優しい人物で、その親族も気のいい人ばかりだった。驚いたことに、亡き父の両親と新しい父の両親までもが仲良くなり、母方の祖父母もあわせ、老夫婦三組で旅行にいくまでの仲になった。
「だから、親戚が多いんです」
「そうでしたか」と賢一郎は静かにうなずいた。
「それで、さっき、宗高さん、おっしゃったじゃないですか、こんなふうにみんなが集まる機会なんてないって。そうだと思います。祖父母だけじゃなくって、わたし、御礼を言わなくちゃいけない人、多いんです、すごく、すごく多いんです。だから、こういうのがいいです。みんなとちゃんと話ができるのが、いいです」  こんどは、賢一郎がハンカチを出す番だった。
「宗高さん、ありがとうございます。わたし、披露宴じゃなくて、感謝祭にしたいです」
 あとでその言葉もメモしておかなければ、と考えながら賢一郎は、頭をさげた。

「さっき泣いてたよな」
 帰路につくミナミを見送ったばかりの賢一郎に、太田が声をかけてきた。朝と同じ、御花の正門でのことだった。雨はあがり、空からは雲という雲が消えていた。
「泣いてない」と賢一郎は強がりを口にした。「ちょっと、胸打たれただけだ」
「いいな、幸せを仕事にするって」
「第一線にいる人間に言われても嬉しくない」
「本心だよ。俺はおまえがうらやましい」
 旧友の力ない喋りに、賢一郎は腕時計を見た。
「これから休憩時間なんだけど、お茶でもどうだ」
 御花を離れて、近場の喫茶店に入ったのは、どうにも太田が思い悩んでいるように感じられたからだ。コーヒーを注文してから、率直に、賢一郎は質問した。
「なにかあったのか」
「ん、ああ、まあ、だいたいいつもなにかはあってるさ」
 はぐらかすような言いぶりに、賢一郎は疑念を強めた。
「仕事、うまくいってないとか?」
「制作の現場はどこもヒイヒイ言ってる」
「なんとなくだけど、わかるよ。協力できることがあればなんでもやるし。正直言うと、おまえがなんの企画でリサーチに来てるのか、聞きたくてたまらない」
「まだ言えない」
「知ってる」
 自転車の乗り方を忘れないように、どっぷりと身を浸した職場のことも消えはしない。
 コーヒーが運ばれてくるまで、ふたりは黙ったままだった。古民家の二階を改装したカフェで、観光客らしき人物が何組か座っている。音楽が、夢の中みたいに静かに流れている。

 事務所には広告代理店の営業が訪れていて、広報と打ち合わせの最中だった。代理店の男は名を仙道といい、三十にもならない若手だが仕事ぶりは確かで、あれこれ企画を持ってきては実現のため奔走してくれる。
「ああ、そうだ、仙道くん、夏のお祭りの件でちょっと相談したいことがあるんだけど」と賢一郎が声をかけると、仙道はしわくちゃの笑顔で「まかせてください!」と答えた。
「まだ何も伝えてないよ」
「でも、まかせてください。なんたって僕、集客の水先案内人ですから」
 仙道の全力ぶりに、賢一郎はすこし、緊張をおぼえる。彼が初めて御花にやってきた日、名刺交換のあとで「僕、川下りの船頭になるのもいいですよね、苗字が仙道だし」と言った。それを受けて賢一郎が返した。
 ——きみには集客の水先案内人になってもらわないと。
 以来、仙道は折りに触れ、その言葉を持ち出してくる。
 なにげなくこぼした言葉が、だれかの人生を左右することがある。そのことは、賢一郎も痛いほどわかっていた。ドラマの世界を離れたきっかけも、そうだった。ともに新人として働いていた太田が、激務の合間を縫って脚本家養成講座に通い、自分の作品を周囲に売り込むようになった。そしてついに、深夜枠のショートドラマで脚本家デビューを果たした。「小川も書いてるんだろう」と太田に見抜かれて、転職を考えはじめた。いつか脚本を書いてみたい、その気持ちは確かにあったが、人生経験が足りない気がしていた。だから、誰にも言わずにいた。太田はいかにも何気ないふうに「小川も書いてるんだろう」と言った。それが、ドラマを離れた原因のすべてではない。決定打、とも違う。でも、大きなきっかけだった。高校時代、好意を抱いていた女子から「小川くんって、あくびするとき目ぇ閉じないよね」と言われて以来、あくびが不自然になったのと同じだ。
 人と言葉のあいだにも、縁はある。良縁もあれば、腐れ縁も。いいことばかりではもちろんないが、生きてさえいれば、いずれ笑い話にできるかもしれない。すべての努力は、未来で笑うためなのだ。そう、賢一郎は考える。

 忙しくしているうちに昼食を食べ逃した。いつのまにか雨がやみ、外は陽も出てきたようだった。
 午後の打ち合わせは秋に挙式と披露宴を予定しているカップルで、新郎新婦そろっての来訪のはずが、やってきたのは女性だけだった。新郎は急な仕事の呼び出しで、どうしても時間を工面できなかったという。
「すみません、事前に連絡できなくて」と新婦となる女性は喫茶室の椅子に座る前に頭を下げた。
「いえいえ、お仕事は大事ですし、まだ時間もありますから。どうぞおかけになられてください」
 その日は二回目の打ち合わせで、披露宴の内容を具体的に詰めていく予定だった。新婦となる女性は名前をミナミといった。
「あれから、披露宴でやりたいことをリストにあげていったんですけど、なんだかわからなくて。うちの、あの、彼氏っていうか、夫っていうか」
「エイスケさんですね」
「はい。あっちは、カラオケとか、そういう余興みたいのもあったほうがいいんじゃないかって言うんですけど、でも、あんまりお仕事関係の人は呼ぶ予定じゃなくて、うち、親族が多いんで。だから、なんか、叔父さんとか従兄弟とかの余興って、あんまり、なくてもいいかなって。どう思います?」
 初回の打ち合わせで、招待客の半分以上が親族になりそうだという話は聞いていた。
「あんまり無理に余興ですとか、そういった時間を設ける必要はないと思いますよ。それだけの親族が一堂に会する機会もあまりないでしょうし」
「そうですね」
「そうすると、皆さん、ご歓談のほうに花を咲かせるかもしれません。ですから、できるだけ、リラックスして過ごせる時間で構成されるのもいいんじゃないかと思います。たとえば、高砂のほかに、各テーブルにあらかじめ新郎新婦の席を用意しておいて、そちらをひとつずつ巡っていきながら、多くの時間をご歓談にあてるというスタイルも」
 説明の傍ら、賢一郎はファイルの一冊を開いてページをめくった。手をとめたところには、新郎新婦が招待客に囲まれ、心の底からの笑顔を浮かべている写真があった。
「すごくしあわせそう」
 ミナミはそっと手をのばしてきて、ファイルのページをめくった。つぎに現れたのは、互いの両親と爆笑している新郎新婦だった。その一枚を目にすると、ミナミの頬に涙がこぼれてきた。
「ああ、いいですね、これ」
 ハンカチを取り出し、目元を拭ったあとで、ミナミは自分の生い立ちを語り始めた。幼いころに父親を亡くした。父親のいない暮らしを支えてくれたのは、父方の祖父母だった。母子家庭としての十年が過ぎ、母に再婚話が持ち上がったとき、亡き父の両親もそれを歓迎してくれた。新しく父親となった男性も優しい人物で、その親族も気のいい人ばかりだった。驚いたことに、亡き父の両親と新しい父の両親までもが仲良くなり、母方の祖父母もあわせ、老夫婦三組で旅行にいくまでの仲になった。
「だから、親戚が多いんです」
「そうでしたか」と賢一郎は静かにうなずいた。
「それで、さっき、宗高さん、おっしゃったじゃないですか、こんなふうにみんなが集まる機会なんてないって。そうだと思います。祖父母だけじゃなくって、わたし、御礼を言わなくちゃいけない人、多いんです、すごく、すごく多いんです。だから、こういうのがいいです。みんなとちゃんと話ができるのが、いいです」  こんどは、賢一郎がハンカチを出す番だった。
「宗高さん、ありがとうございます。わたし、披露宴じゃなくて、感謝祭にしたいです」
 あとでその言葉もメモしておかなければ、と考えながら賢一郎は、頭をさげた。

「さっき泣いてたよな」
 帰路につくミナミを見送ったばかりの賢一郎に、太田が声をかけてきた。朝と同じ、御花の正門でのことだった。雨はあがり、空からは雲という雲が消えていた。
「泣いてない」と賢一郎は強がりを口にした。「ちょっと、胸打たれただけだ」
「いいな、幸せを仕事にするって」
「第一線にいる人間に言われても嬉しくない」
「本心だよ。俺はおまえがうらやましい」
 旧友の力ない喋りに、賢一郎は腕時計を見た。
「これから休憩時間なんだけど、お茶でもどうだ」
 御花を離れて、近場の喫茶店に入ったのは、どうにも太田が思い悩んでいるように感じられたからだ。コーヒーを注文してから、率直に、賢一郎は質問した。
「なにかあったのか」
「ん、ああ、まあ、だいたいいつもなにかはあってるさ」
 はぐらかすような言いぶりに、賢一郎は疑念を強めた。
「仕事、うまくいってないとか?」
「制作の現場はどこもヒイヒイ言ってる」
「なんとなくだけど、わかるよ。協力できることがあればなんでもやるし。正直言うと、おまえがなんの企画でリサーチに来てるのか、聞きたくてたまらない」
「まだ言えない」
「知ってる」
 自転車の乗り方を忘れないように、どっぷりと身を浸した職場のことも消えはしない。
 コーヒーが運ばれてくるまで、ふたりは黙ったままだった。古民家の二階を改装したカフェで、観光客らしき人物が何組か座っている。音楽が、夢の中みたいに静かに流れている。