なにも乗っていない円卓に、鈴木は上半身をかぶせるようにして倒れた。
「鈴木くんさ」
 瀬ノ元の呼びかけに、鈴木はうつぶせのまま「はい」とくぐもった返事をした。
「お酒、飲めるんだっけ?」
「はい、強いです」
 表情は見えないが、さらりと言ってのける声に、瀬ノ元はほっとした。彼が運転免許証を持っていないことも把握済みだ。
「僕もさ、あんまり、段取りうまいほうじゃないんだ。ここで働く前は、けっこう、ふらふらしてた。遊んでたとか、そういうんでもなくて、どこに行けばいいかわからなかったんだ」
 言葉にすると、そうでもない気がした。
 行先がわからずにふらついていたというよりも、あてもなく流れていく感覚が好きなのだ。
「学校にも、どうにも馴染めなくて、高校を中退した」
「高校すか?」
 驚いたのか、興味が湧いたのか、それとも自分の大学中退と重ね合わせて勝ちだか負けだかを感じたのか、鈴木は顔をあげた。
「そうだよ。それでアルバイトを転々として、十八歳になってからは、お金がたまったら日本のあちこちを旅してまわって、行った先でもすこし働いたりなんかして」
「なんか、そんなふうに見えないすね。瀬ノ元さんって、ウォシュレットないトイレじゃ用を足せないみたいな感じかと思ってました」
 鈴木のコメントを、瀬ノ元は苦笑まじりに否定した。
「一年くらいかな、いろんなところに行って、それで実家に戻って、そしたら友達の紹介で就職することになったんだけど、結局、そこも、一年経たずに辞めた」
「俺と似てますね」
 いつのまにか、鈴木は上半身を起こして、親しげな顔つきになっていた。

 無職に戻った瀬ノ元は、旅に出ず、しばらく自宅で過ごした。
 家族や親戚、あるいは以前とは別の友達から、仕事を紹介しようかと声を掛けられることもあったが、身近な人に迷惑をかけるかもしれないという思いから、すべて断った。
 五つ上の姉がいて、瀬ノ元が無職だった時期に、結婚した。
 二十二歳で無職の弟がいるなんて、というのは体裁が悪い気もしたが、姉は「弟は弟でしょ」と言って、彼も結婚式に招待した。
 わずかな貯金を使って実家を出て、人の多い街に部屋を借りたのは、姉の披露宴からひと月と経たないころだった。新しい街でいくつかのアルバイトを経験し、バーテンとして働くようになった。それが性に合ったのだろう。一年が過ぎても、辞めようと思うことがなかった。

「給料よかったんですか」
 鈴木の質問に、瀬ノ元はまた首を横に振った。
「正直、たいした額じゃなかった。でも、楽しかった。僕は、自分でも不思議なんだけど、ふだんは引っ込み思案で、話すのだって下手なんだけど、接客業が好きなんだなってわかった」
「え、意味わかんないじゃないですか、人と話すの苦手なら、接客業とか地獄っしょ」
「そんなことないよ。仕事だと思えば……」
 なにか言いかけたところで止まった瀬ノ元に、鈴木がいぶかしげな目を向ける。
「なんすか」
「いや、仕事だって、思ってないのかな」
「へ?」
「いま、あらためて考えてみたんだけど、うん、仕事、じゃなくて、お客様のためにしゃべったり、動いたりしていいんだっていう思いが、ある、みたいなことかな」
 瀬ノ元の思いつきがうまく理解できないふうに、鈴木は首をひねった。
「そうだ、カクテル、飲まない?」
 言って瀬ノ元は立ち上がり、従業員用のドアからバックヤードに入って照明をつけた。あとから鈴木もついてきた。
 宴会用のお酒のボトルがずらりと並んでいる。業務用の冷蔵庫と冷凍庫の稼働する低い音が静かに響いている。ホールも暖房はとっくに切ってあったが、バックヤードのほうがずっと寒かった。
「飲んでいいんですか」
「駄目だよ。私的利用なんて認めてない」
「ですよね」
「でも、鈴木くんがここでの仕事を長く続けてくれて、いつか、カクテルを作ることもあるかもしれない。そこまで見据えたら、指導の一貫、てことにならないかな」
 言われたことがすんなりと入ってこなかったのか、鈴木はしばらく無表情に立っていた。なにを飲む? 問われて、鈴木は我に返った。
「あ、おまかせで。ていうか、瀬ノ元さんもあれですね、けっこう、適当なんですね」
「適当、かなあ」
 否定とも肯定ともつかない笑いでごまかしながら、瀬ノ元は慣れた手つきでグラスを取り出した。
 バーテン時代に培ったのは、カクテル作りの技能だけではない。
 生まれつき、瀬ノ元は人の顔色を気にする性格だった。友達との会話でも、ちょっとした表情の変化を見ては、機嫌の善し悪しを推し量った。なにげない動作、たとえばドアの閉じ方ひとつでも、あれっ、と引っかかることがあった。空気を読みすぎる臆病者なのだと思っていたが、これが、バーでの仕事にはずいぶん役立った。
 お客様がリラックスできているか。
 空腹ではないだろうか。
 今日は楽しいことがあっただろうか。それとも忘れたいことがあって来たのだろうか。
 体調はどうだろう。
 機嫌は。
 居心地は。
 もてなす側に立つのは、だれかのことを、とことんまで思うということにほかならなかった。

 カクテルグラスの縁に塩をつけて、仕上げをほどこす。
「手際いいっすね」
「まあね。あっちで飲もうか。お客様の目線を知るためにも」
 バックヤードからホールへ戻る途中、瀬ノ元はちらりと腕時計を確かめた。もうすこし、時間がありそうだ。
 さっきと同じ席に腰をおろすと、鈴木は両手をあわせて「いただきます」と頭をさげた。
「あ、うまいですね、これ。なんて名前ですか」
「マルガリータ」
「ピザ」と鈴木が間髪入れずに言った。

 なにも乗っていない円卓に、鈴木は上半身をかぶせるようにして倒れた。
「鈴木くんさ」
 瀬ノ元の呼びかけに、鈴木はうつぶせのまま「はい」とくぐもった返事をした。
「お酒、飲めるんだっけ?」
「はい、強いです」
 表情は見えないが、さらりと言ってのける声に、瀬ノ元はほっとした。彼が運転免許証を持っていないことも把握済みだ。
「僕もさ、あんまり、段取りうまいほうじゃないんだ。ここで働く前は、けっこう、ふらふらしてた。遊んでたとか、そういうんでもなくて、どこに行けばいいかわからなかったんだ」
 言葉にすると、そうでもない気がした。
 行先がわからずにふらついていたというよりも、あてもなく流れていく感覚が好きなのだ。
「学校にも、どうにも馴染めなくて、高校を中退した」
「高校すか?」
 驚いたのか、興味が湧いたのか、それとも自分の大学中退と重ね合わせて勝ちだか負けだかを感じたのか、鈴木は顔をあげた。
「そうだよ。それでアルバイトを転々として、十八歳になってからは、お金がたまったら日本のあちこちを旅してまわって、行った先でもすこし働いたりなんかして」
「なんか、そんなふうに見えないすね。瀬ノ元さんって、ウォシュレットないトイレじゃ用を足せないみたいな感じかと思ってました」
 鈴木のコメントを、瀬ノ元は苦笑まじりに否定した。
「一年くらいかな、いろんなところに行って、それで実家に戻って、そしたら友達の紹介で就職することになったんだけど、結局、そこも、一年経たずに辞めた」
「俺と似てますね」
 いつのまにか、鈴木は上半身を起こして、親しげな顔つきになっていた。

 無職に戻った瀬ノ元は、旅に出ず、しばらく自宅で過ごした。
 家族や親戚、あるいは以前とは別の友達から、仕事を紹介しようかと声を掛けられることもあったが、身近な人に迷惑をかけるかもしれないという思いから、すべて断った。
 五つ上の姉がいて、瀬ノ元が無職だった時期に、結婚した。
 二十二歳で無職の弟がいるなんて、というのは体裁が悪い気もしたが、姉は「弟は弟でしょ」と言って、彼も結婚式に招待した。
 わずかな貯金を使って実家を出て、人の多い街に部屋を借りたのは、姉の披露宴からひと月と経たないころだった。新しい街でいくつかのアルバイトを経験し、バーテンとして働くようになった。それが性に合ったのだろう。一年が過ぎても、辞めようと思うことがなかった。

「給料よかったんですか」
 鈴木の質問に、瀬ノ元はまた首を横に振った。
「正直、たいした額じゃなかった。でも、楽しかった。僕は、自分でも不思議なんだけど、ふだんは引っ込み思案で、話すのだって下手なんだけど、接客業が好きなんだなってわかった」
「え、意味わかんないじゃないですか、人と話すの苦手なら、接客業とか地獄っしょ」
「そんなことないよ。仕事だと思えば……」
 なにか言いかけたところで止まった瀬ノ元に、鈴木がいぶかしげな目を向ける。
「なんすか」
「いや、仕事だって、思ってないのかな」
「へ?」
「いま、あらためて考えてみたんだけど、うん、仕事、じゃなくて、お客様のためにしゃべったり、動いたりしていいんだっていう思いが、ある、みたいなことかな」
 瀬ノ元の思いつきがうまく理解できないふうに、鈴木は首をひねった。
「そうだ、カクテル、飲まない?」
 言って瀬ノ元は立ち上がり、従業員用のドアからバックヤードに入って照明をつけた。あとから鈴木もついてきた。
 宴会用のお酒のボトルがずらりと並んでいる。業務用の冷蔵庫と冷凍庫の稼働する低い音が静かに響いている。ホールも暖房はとっくに切ってあったが、バックヤードのほうがずっと寒かった。
「飲んでいいんですか」
「駄目だよ。私的利用なんて認めてない」
「ですよね」
「でも、鈴木くんがここでの仕事を長く続けてくれて、いつか、カクテルを作ることもあるかもしれない。そこまで見据えたら、指導の一貫、てことにならないかな」
 言われたことがすんなりと入ってこなかったのか、鈴木はしばらく無表情に立っていた。なにを飲む? 問われて、鈴木は我に返った。
「あ、おまかせで。ていうか、瀬ノ元さんもあれですね、けっこう、適当なんですね」
「適当、かなあ」
 否定とも肯定ともつかない笑いでごまかしながら、瀬ノ元は慣れた手つきでグラスを取り出した。
 バーテン時代に培ったのは、カクテル作りの技能だけではない。
 生まれつき、瀬ノ元は人の顔色を気にする性格だった。友達との会話でも、ちょっとした表情の変化を見ては、機嫌の善し悪しを推し量った。なにげない動作、たとえばドアの閉じ方ひとつでも、あれっ、と引っかかることがあった。空気を読みすぎる臆病者なのだと思っていたが、これが、バーでの仕事にはずいぶん役立った。
 お客様がリラックスできているか。
 空腹ではないだろうか。
 今日は楽しいことがあっただろうか。それとも忘れたいことがあって来たのだろうか。
 体調はどうだろう。
 機嫌は。
 居心地は。
 もてなす側に立つのは、だれかのことを、とことんまで思うということにほかならなかった。

 カクテルグラスの縁に塩をつけて、仕上げをほどこす。
「手際いいっすね」
「まあね。あっちで飲もうか。お客様の目線を知るためにも」
 バックヤードからホールへ戻る途中、瀬ノ元はちらりと腕時計を確かめた。もうすこし、時間がありそうだ。
 さっきと同じ席に腰をおろすと、鈴木は両手をあわせて「いただきます」と頭をさげた。
「あ、うまいですね、これ。なんて名前ですか」
「マルガリータ」
「ピザ」と鈴木が間髪入れずに言った。