マルガリータ

 事務所での仕事を終えた瀬ノ元は、夜の中庭を急ぎ足で、対月館へと戻った。
 師走に入ってからこちら、いくらこなしても仕事が減っていく気はしないが、その日の披露宴でお客様にいただいた言葉、そして笑顔を思い返すと、疲れもどこかへ流れていった。
 ホールの片づけは、もう終わっているだろう。照明と施錠、バックヤードの火の元を確認して、その日の業務が終了となる。
 対月館二階にあるホール〈Over The Moon〉のドアを開けると、青年がひとり、部屋の隅の椅子に放心したように座っていた。
 宴会用の円卓は壁側に並べられ、ホールはがらんとして見える。ついさっきまで、ここで盛大な披露宴が行われていたとは、にわかに信じがたいほどの静けさだった。
 だれもいないと思いこんでいた瀬ノ元は、青年の姿におどろいたものの、いかにもだれかに話を聞いてもらいたいという雰囲気に、思わず、笑ってしまった。自分にも、似た経験があるからだ。
「鈴木くん、みんなもう帰ったんじゃないの」
 瀬ノ元が話しかけると、青年は顔をあげた。
「瀬ノ元さん、あの、今日はすみませんでした」
 青年は、謝罪の言葉を口にしたあとで思い出したように立ち上がり、頭を深くさげた。同時に、彼の座っていた椅子がうしろに倒れて、おおきな音をたてた。
「すみません、すみません」
 ニットにジーンズという私服に着替えていた青年は、動転しながら椅子を立て直した。
「そんなに、何度もあやまらなくても、大丈夫」
 おだやかな声になるよう、瀬ノ元は慎重に言葉を発した。
 もとから静かな性格であり、厳しい口調になることなど滅多にないのだが、しかし、人と接するにはなにかしらの「構え」が要る、と瀬ノ元は考えている。
 そうだ、自分はいま、指導する側なのだ。
「ここも、もう閉めるから、鈴木君も、そろそろ帰ったほうがいいよ」
「あの、ほんとうに、すみませんでした。俺、明日も、シフト入れてもらってて、だから、あの、今日みたいなミスはしないように、がんばります」

 給仕のバイトで採用された鈴木は、その日が三度目の出勤だった。年末の披露宴には、ほかの季節とはまたちがう種類の高揚感があり、給仕係も慣れた人物のほうが好ましかったが、体調を崩しやすい時期でもあり、人手は多いに越したことはなかった。
 初日の自己紹介でも、不器用であること、緊張しがちであることを鈴木は申告していた。不安をすこしでもやわらげてあげるべく、落ち着いて取り組めば大丈夫だよ、と瀬ノ元は声をかけていた。
 鈴木は小柄だが、胸と腕の筋肉はニットを着ていてもそれとわかるほど盛り上がっていて、高校時代にはラグビー部に所属し、チームで動くことは得意ですとも話していた。給仕係にはあまり見ないタイプの青年だった。
 制服の着方、身だしなみの整え方を控室で指導したあと、鏡の前に鈴木と並んで立った瀬ノ元は、自分の線の細さを痛感した。スポーツは得意ではない。人づきあいも、どちらかといえば「苦手」に分類される。プライベートでは、初対面でだれかと話すなんて、とてもできない。
 緊張します、とおびえていたわりに、鈴木は愛嬌のある笑顔と元気のよい返事とで、披露宴のお客様たちにもあたたかく迎え入れていただけているようだった。
 ところが、三度目の出勤となるその日、鈴木はミスをおかした。
 ハイボールを頼まれたお客様にモスコミュールを、モスコミュールを頼まれたお客様にハイボールを運んでしまった。
 些細なミスと言えなくもないが、ミスはサイズで計るものではない。
 ハイボールを口にしたお客様が顔をしかめるのを、瀬ノ元はたまたま目にしていた。
 テーブルの担当は鈴木だった。しかし飲み物については、お客様も目についたスタッフに声をかけるので、鈴木のミスとは限らない。いずれにせよ、披露宴の最中に追及する余裕はなく、その場は瀬ノ元が対応した。
 場が丸く収まったあと、バックヤードに戻ると鈴木が待ち構えていて、深々と頭をさげられた。自分が間違ったんですと告白し、瀬ノ元が対応するのを遠巻きに見るしかできなかったことを反省していますと言った。
「正直に話してくれてありがとう。ドリンクを渡す際には、きちんと確認するように心がけて。ほら、それ、お料理を運ばないと」
 さいわい、その後も目立ったトラブルはなく、宴は盛況のうちに幕を下ろした。
 アルバイトのメンバーたちを集めて簡単なミーティングを終えてから、瀬ノ元は解散を命じた。鈴木に声をかけるつもりでいたが、上司に呼ばれて別の案件に対応せねばならず、事務所に急いだ。その夜はプライベートな約束もあり、なにかとせわしなかった。まさか鈴木が自分を待っているとは、考えていなかった。

 アルバイトは大学生や専門学校生が多く、だれもがミスをおかす。
 それは結婚式場に限ったことではないだろうし、アルバイトに限った話でもない。
 瀬ノ元はそう思う。
 どんな仕事でも、最初から完璧にこなせるわけがないのだ。
「だから鈴木くんも、そんなに気落ちする必要はないよ。ドリンクの取り違えは、僕らの指導の不足でもあるんだし、それに、そんなふうに真面目に反省してもらえるってことは、それだけ真剣に仕事に取り組んでくれているってことだから」
 押し黙ったままの鈴木を前に、仕方なく、瀬ノ元は自分の失敗談まで持ち出した。
「僕なんか、もっとひどい失態を演じたことがある。そんな自慢気に語ることじゃないけど、高木さんっていうお客様がね、大きな会社の役員を務められていた方で、一線を退く、退職祝いのパーティを、ここでやっていただいたんだ。ぼくが進行を任されて、大役だけど、結婚披露宴よりも段取りは少なかったから、瀬ノ元、やってみろって感じだったんだと思う。そしたら、時間配分を間違って……」
 思い出して、声が重くなる。
「披露宴は通常二時間半なんだけど、高木さんのパーティはそれより一時間長く予定されていた。それなのにぼくは、披露宴の癖で、二時間半きっちりで終わらせてしまったんだ」
 招待客は事情を知らないので、会場の空気におかしなところはなかったが、司会者が「宴もたけなわではございますが」と口にした途端、パーティの主催者や、主役である高木さんが表情を硬くしたのには、瀬ノ元も気がついた。しかし、理由を確かめるより早く、司会者が話を進め、宴はおひらきとなった。
 瀬ノ元は厳しく叱られた。お客様の怒りは当然だった。謝罪で済むはずもなく、辞職する以外に責任を取る道はないと考えた。その覚悟で、高木さんの自宅へ何度目かの謝罪に訪れたときのことだ。たっぷりと苦言を述べたあとで、高木さんは、こう言った。
 きみが辞めてもパーティはやりなおせない。今後のサービスで、とりかえすしかないよな。
「だから、鈴木くんも、今日のことはひとつの糧として」
「ちがうんです」と鈴木はうつむいたまま首を横に振った。「今日のことだけじゃなくて、俺、駄目なんです、なにやってもすぐ間違うんです」
 思い詰めた様子に、瀬ノ元は一呼吸置いてから、こう聞いた。
「どうしてそんなふうに思うの。すくなくとも僕は、鈴木くんのミスを見たの、今日の一回だけだよ」
 瀬ノ元のやさしさを感じ取ったのか、鈴木は顔をあげた。いかめしい顔つきではあるが、目には、いまにもこぼれそうなほど、涙がたまっていた。
「俺、二十五なんです」
 うん、と瀬ノ元はうなずいた。
 履歴書で知っていた。大学を中退したことも。一度は就職したが、半年を待たずに退職したことも。
「俺、駄目なんですよ、なにごとも間が悪いっていうか、人生の段取りが狂いまくってて」

 事務所での仕事を終えた瀬ノ元は、夜の中庭を急ぎ足で、対月館へと戻った。
 師走に入ってからこちら、いくらこなしても仕事が減っていく気はしないが、その日の披露宴でお客様にいただいた言葉、そして笑顔を思い返すと、疲れもどこかへ流れていった。
 ホールの片づけは、もう終わっているだろう。照明と施錠、バックヤードの火の元を確認して、その日の業務が終了となる。
 対月館二階にあるホール〈Over The Moon〉のドアを開けると、青年がひとり、部屋の隅の椅子に放心したように座っていた。
 宴会用の円卓は壁側に並べられ、ホールはがらんとして見える。ついさっきまで、ここで盛大な披露宴が行われていたとは、にわかに信じがたいほどの静けさだった。
 だれもいないと思いこんでいた瀬ノ元は、青年の姿におどろいたものの、いかにもだれかに話を聞いてもらいたいという雰囲気に、思わず、笑ってしまった。自分にも、似た経験があるからだ。
「鈴木くん、みんなもう帰ったんじゃないの」
 瀬ノ元が話しかけると、青年は顔をあげた。
「瀬ノ元さん、あの、今日はすみませんでした」
 青年は、謝罪の言葉を口にしたあとで思い出したように立ち上がり、頭を深くさげた。同時に、彼の座っていた椅子がうしろに倒れて、おおきな音をたてた。
「すみません、すみません」
 ニットにジーンズという私服に着替えていた青年は、動転しながら椅子を立て直した。
「そんなに、何度もあやまらなくても、大丈夫」
 おだやかな声になるよう、瀬ノ元は慎重に言葉を発した。
 もとから静かな性格であり、厳しい口調になることなど滅多にないのだが、しかし、人と接するにはなにかしらの「構え」が要る、と瀬ノ元は考えている。
 そうだ、自分はいま、指導する側なのだ。
「ここも、もう閉めるから、鈴木君も、そろそろ帰ったほうがいいよ」
「あの、ほんとうに、すみませんでした。俺、明日も、シフト入れてもらってて、だから、あの、今日みたいなミスはしないように、がんばります」

 給仕のバイトで採用された鈴木は、その日が三度目の出勤だった。年末の披露宴には、ほかの季節とはまたちがう種類の高揚感があり、給仕係も慣れた人物のほうが好ましかったが、体調を崩しやすい時期でもあり、人手は多いに越したことはなかった。
 初日の自己紹介でも、不器用であること、緊張しがちであることを鈴木は申告していた。不安をすこしでもやわらげてあげるべく、落ち着いて取り組めば大丈夫だよ、と瀬ノ元は声をかけていた。
 鈴木は小柄だが、胸と腕の筋肉はニットを着ていてもそれとわかるほど盛り上がっていて、高校時代にはラグビー部に所属し、チームで動くことは得意ですとも話していた。給仕係にはあまり見ないタイプの青年だった。
 制服の着方、身だしなみの整え方を控室で指導したあと、鏡の前に鈴木と並んで立った瀬ノ元は、自分の線の細さを痛感した。スポーツは得意ではない。人づきあいも、どちらかといえば「苦手」に分類される。プライベートでは、初対面でだれかと話すなんて、とてもできない。
 緊張します、とおびえていたわりに、鈴木は愛嬌のある笑顔と元気のよい返事とで、披露宴のお客様たちにもあたたかく迎え入れていただけているようだった。
 ところが、三度目の出勤となるその日、鈴木はミスをおかした。
 ハイボールを頼まれたお客様にモスコミュールを、モスコミュールを頼まれたお客様にハイボールを運んでしまった。
 些細なミスと言えなくもないが、ミスはサイズで計るものではない。
 ハイボールを口にしたお客様が顔をしかめるのを、瀬ノ元はたまたま目にしていた。
 テーブルの担当は鈴木だった。しかし飲み物については、お客様も目についたスタッフに声をかけるので、鈴木のミスとは限らない。いずれにせよ、披露宴の最中に追及する余裕はなく、その場は瀬ノ元が対応した。
 場が丸く収まったあと、バックヤードに戻ると鈴木が待ち構えていて、深々と頭をさげられた。自分が間違ったんですと告白し、瀬ノ元が対応するのを遠巻きに見るしかできなかったことを反省していますと言った。
「正直に話してくれてありがとう。ドリンクを渡す際には、きちんと確認するように心がけて。ほら、それ、お料理を運ばないと」
 さいわい、その後も目立ったトラブルはなく、宴は盛況のうちに幕を下ろした。
 アルバイトのメンバーたちを集めて簡単なミーティングを終えてから、瀬ノ元は解散を命じた。鈴木に声をかけるつもりでいたが、上司に呼ばれて別の案件に対応せねばならず、事務所に急いだ。その夜はプライベートな約束もあり、なにかとせわしなかった。まさか鈴木が自分を待っているとは、考えていなかった。

 アルバイトは大学生や専門学校生が多く、だれもがミスをおかす。
 それは結婚式場に限ったことではないだろうし、アルバイトに限った話でもない。
 瀬ノ元はそう思う。
 どんな仕事でも、最初から完璧にこなせるわけがないのだ。
「だから鈴木くんも、そんなに気落ちする必要はないよ。ドリンクの取り違えは、僕らの指導の不足でもあるんだし、それに、そんなふうに真面目に反省してもらえるってことは、それだけ真剣に仕事に取り組んでくれているってことだから」
 押し黙ったままの鈴木を前に、仕方なく、瀬ノ元は自分の失敗談まで持ち出した。
「僕なんか、もっとひどい失態を演じたことがある。そんな自慢気に語ることじゃないけど、高木さんっていうお客様がね、大きな会社の役員を務められていた方で、一線を退く、退職祝いのパーティを、ここでやっていただいたんだ。ぼくが進行を任されて、大役だけど、結婚披露宴よりも段取りは少なかったから、瀬ノ元、やってみろって感じだったんだと思う。そしたら、時間配分を間違って……」
 思い出して、声が重くなる。
「披露宴は通常二時間半なんだけど、高木さんのパーティはそれより一時間長く予定されていた。それなのにぼくは、披露宴の癖で、二時間半きっちりで終わらせてしまったんだ」
 招待客は事情を知らないので、会場の空気におかしなところはなかったが、司会者が「宴もたけなわではございますが」と口にした途端、パーティの主催者や、主役である高木さんが表情を硬くしたのには、瀬ノ元も気がついた。しかし、理由を確かめるより早く、司会者が話を進め、宴はおひらきとなった。
 瀬ノ元は厳しく叱られた。お客様の怒りは当然だった。謝罪で済むはずもなく、辞職する以外に責任を取る道はないと考えた。その覚悟で、高木さんの自宅へ何度目かの謝罪に訪れたときのことだ。たっぷりと苦言を述べたあとで、高木さんは、こう言った。
 きみが辞めてもパーティはやりなおせない。今後のサービスで、とりかえすしかないよな。
「だから、鈴木くんも、今日のことはひとつの糧として」
「ちがうんです」と鈴木はうつむいたまま首を横に振った。「今日のことだけじゃなくて、俺、駄目なんです、なにやってもすぐ間違うんです」
 思い詰めた様子に、瀬ノ元は一呼吸置いてから、こう聞いた。
「どうしてそんなふうに思うの。すくなくとも僕は、鈴木くんのミスを見たの、今日の一回だけだよ」
 瀬ノ元のやさしさを感じ取ったのか、鈴木は顔をあげた。いかめしい顔つきではあるが、目には、いまにもこぼれそうなほど、涙がたまっていた。
「俺、二十五なんです」
 うん、と瀬ノ元はうなずいた。
 履歴書で知っていた。大学を中退したことも。一度は就職したが、半年を待たずに退職したことも。
「俺、駄目なんですよ、なにごとも間が悪いっていうか、人生の段取りが狂いまくってて」