それが一昨日、日曜の午後のことだった。
 その後、岡部は結婚披露宴の手伝いに奔走した。館内のどこかでナビとすれちがわないかと期待したが、かなわなかった。披露宴では新郎新婦ともにサプライズを仕込んでいて、大掛かりなトリックを任せられた手品師の助手よろしく、岡部は緊張しっぱなしだった。
 お客様の見送りから後片付けを終え、へとへとになって事務所に戻ってきたのは、深夜近くになってからだ。事務所は無人だった。照明をつけてあくびをひとつしたあとで、岡部は、目を見張った。自分の机の上に、色紙が置いてあった。疲れも何もかも吹き飛び、すがるように色紙を手にとった。賢一郎の柔和な笑顔が浮かび、すげえ、賢一郎さん本当にもらってくれたんだ、と感謝が喉元まで迫りあがってきた。が、しかし、その表情はだんだんと曇っていった。
 たしかにそれは、サインだった。
 でも、と岡部は首を傾げた。眉間にしわを浮かべ、疑いを募らせていった。
 こんなサインだったか?
 ナビのシグネチャーモデルのベースも持っているのだ。細部まではおぼえていないにせよ、おおよその輪郭くらいわかる。ナビが書き方を変えたのでない限り、そしてそんな情報を岡部は得ていないが、それがナビのサインでないことはほとんど明白だった。
 岡部は賢一郎の携帯に電話をかけた。
「はいはい、もしもーし」
 すでに飲んでいるのか、賢一郎の声はぼやぼやとしている。
「岡部です」
「あ、はい」
 硬い返事に、冷静さが戻ってきたのを岡部も感じるが、賢一郎の呂律にはまだ怪しいところがあった。
「サイン、ありがとうございました」
 嫌味が、口をついて出た。そんなことを言うつもりではなかった。
「でも、これ、違いますよね」
「あ、わかる?」
 普段どおりのおちゃらけたトーンに、岡部は悔しくなった。馬鹿にされている気がしてならなかった。
「わかりますよ! 僕、言いましたよね、ナビさん、ずっと、ずっと憧れの人なんです。ずっと、ずっと、支えなんです。サイン、知らないわけないじゃないですか、見ればわかりますよ、こんな、こんな輪郭じゃないですから」
 輪郭、と、か細い声が、電話越しに聞こえてくる。
「あのさ、岡部くん、明日、明日さ」
「いいです。僕が間違ってました。ていうか、これ、なんですか、誰のサインですか」
「あ、それね、ぼく、ぼくのサイン。ほら、東京でさ、師匠に言われて、おまえもサインの練習くらいしとけよって、いや、ね、実際に使ったことなかったんだけど、はじめて! はじめて役に立った! どう? なかなか、うまく書けてると思わない?」
「失礼します」
 岡部は電話を切って、自宅に帰った。

 翌月曜日は夜勤シフトで、普段であれば日中は長めに眠っておくのだが、岡部はろくに眠れなかった。自分が出勤するころには、もう、ナビ一家はチェックアウトしている。いまから駅で待ち伏せて、御花の従業員であることは伏せておいて、ひとりのファンが偶然会った体で握手とサインを求める、というのはどうだろう?
 何度も妄想を広げたが、実行には移さなかった。
 もしかしたら、自分のことを覚えてくれているかもしれない。
 フロントで受付をしただけだが、それでも、なにかの印象に残っているかもしれない。
 ナビさんが御花を良い場所だと褒めてくれたと、レストランのスタッフからも聞いていた。自分が駅まで追いかけていって、それで、御花全体の評価を落としたら。そんな真似、できるはずがなかった。

 午後になり、出勤のため車に乗った。大音量でナビのソロアルバムを流しながら、普段よりも遠まわりの道を選んだ。頭に、賢一郎の顔がちらつく。無理なら無理と最初から言ってくれたらよかったのだ。それを、あんな、自分のサインでごまかすなんて。
 幸いなことに、賢一郎はその日、休みだった。彼のサインは事務所の机にしまっておいた。いつか、これが笑い話になったとき、ほかのスタッフにも見せてやるのだ。
 見てくださいよ、これ、賢一郎さんのサイン!
 皆、笑うだろうが、自分が笑えるかどうか、自信はなかった。
 夜勤の準備をしていると、総務の藤野優実が声をかけてきて、昨日ミュージシャンの方が泊まって、すごく面白い話をしてくれたんです、そこのカフェで、と語りだした。ナビのファンであることを打ち明けると「岡部さんもいればよかったですね」と優実は自分のことのように残念がってくれた。その気遣いがまた、岡部には痛かった。

 それが一昨日、日曜の午後のことだった。
 その後、岡部は結婚披露宴の手伝いに奔走した。館内のどこかでナビとすれちがわないかと期待したが、かなわなかった。披露宴では新郎新婦ともにサプライズを仕込んでいて、大掛かりなトリックを任せられた手品師の助手よろしく、岡部は緊張しっぱなしだった。
 お客様の見送りから後片付けを終え、へとへとになって事務所に戻ってきたのは、深夜近くになってからだ。事務所は無人だった。照明をつけてあくびをひとつしたあとで、岡部は、目を見張った。自分の机の上に、色紙が置いてあった。疲れも何もかも吹き飛び、すがるように色紙を手にとった。賢一郎の柔和な笑顔が浮かび、すげえ、賢一郎さん本当にもらってくれたんだ、と感謝が喉元まで迫りあがってきた。が、しかし、その表情はだんだんと曇っていった。
 たしかにそれは、サインだった。
 でも、と岡部は首を傾げた。眉間にしわを浮かべ、疑いを募らせていった。
 こんなサインだったか?
 ナビのシグネチャーモデルのベースも持っているのだ。細部まではおぼえていないにせよ、おおよその輪郭くらいわかる。ナビが書き方を変えたのでない限り、そしてそんな情報を岡部は得ていないが、それがナビのサインでないことはほとんど明白だった。
 岡部は賢一郎の携帯に電話をかけた。
「はいはい、もしもーし」
 すでに飲んでいるのか、賢一郎の声はぼやぼやとしている。
「岡部です」
「あ、はい」
 硬い返事に、冷静さが戻ってきたのを岡部も感じるが、賢一郎の呂律にはまだ怪しいところがあった。
「サイン、ありがとうございました」
 嫌味が、口をついて出た。そんなことを言うつもりではなかった。
「でも、これ、違いますよね」
「あ、わかる?」
 普段どおりのおちゃらけたトーンに、岡部は悔しくなった。馬鹿にされている気がしてならなかった。
「わかりますよ! 僕、言いましたよね、ナビさん、ずっと、ずっと憧れの人なんです。ずっと、ずっと、支えなんです。サイン、知らないわけないじゃないですか、見ればわかりますよ、こんな、こんな輪郭じゃないですから」
 輪郭、と、か細い声が、電話越しに聞こえてくる。
「あのさ、岡部くん、明日、明日さ」
「いいです。僕が間違ってました。ていうか、これ、なんですか、誰のサインですか」
「あ、それね、ぼく、ぼくのサイン。ほら、東京でさ、師匠に言われて、おまえもサインの練習くらいしとけよって、いや、ね、実際に使ったことなかったんだけど、はじめて! はじめて役に立った! どう? なかなか、うまく書けてると思わない?」
「失礼します」
 岡部は電話を切って、自宅に帰った。

 翌月曜日は夜勤シフトで、普段であれば日中は長めに眠っておくのだが、岡部はろくに眠れなかった。自分が出勤するころには、もう、ナビ一家はチェックアウトしている。いまから駅で待ち伏せて、御花の従業員であることは伏せておいて、ひとりのファンが偶然会った体で握手とサインを求める、というのはどうだろう?
 何度も妄想を広げたが、実行には移さなかった。
 もしかしたら、自分のことを覚えてくれているかもしれない。
 フロントで受付をしただけだが、それでも、なにかの印象に残っているかもしれない。
 ナビさんが御花を良い場所だと褒めてくれたと、レストランのスタッフからも聞いていた。自分が駅まで追いかけていって、それで、御花全体の評価を落としたら。そんな真似、できるはずがなかった。

 午後になり、出勤のため車に乗った。大音量でナビのソロアルバムを流しながら、普段よりも遠まわりの道を選んだ。頭に、賢一郎の顔がちらつく。無理なら無理と最初から言ってくれたらよかったのだ。それを、あんな、自分のサインでごまかすなんて。
 幸いなことに、賢一郎はその日、休みだった。彼のサインは事務所の机にしまっておいた。いつか、これが笑い話になったとき、ほかのスタッフにも見せてやるのだ。
 見てくださいよ、これ、賢一郎さんのサイン!
 皆、笑うだろうが、自分が笑えるかどうか、自信はなかった。
 夜勤の準備をしていると、総務の藤野優実が声をかけてきて、昨日ミュージシャンの方が泊まって、すごく面白い話をしてくれたんです、そこのカフェで、と語りだした。ナビのファンであることを打ち明けると「岡部さんもいればよかったですね」と優実は自分のことのように残念がってくれた。その気遣いがまた、岡部には痛かった。