後部座席に原田夫妻を乗せ、葵はエンジンをかけた。
 静かに、車が目を覚ます。
 ライトを点灯させ、ワイパーを最速で動かし、「行きますね」と後方に告げてアクセルを踏んだ。
 御花の敷地から出ると、普段ならタクシーのいるあたりも、水たまりを雨が叩いているだけだった。
 ほらね、やっぱり、と葵は納得する。自分の読みが当たった。
 広くはない道を慎重に進み、角を左へ曲がる。出てすぐの信号は青だった。いちばん近い産科までの道のりを脳裏に表示させながら、二車線の県道へ出る。
 後部座席から、「痛い、痛い」と掠れた呻きが聞こえてくる。「大丈夫、大丈夫」と、自分自身に言い聞かせるような啓太の声も聞こえてくる。
 二人のやりとりを背に、葵も頭で唱えた。
 ——おねがい、おねがい。
 なにがお願いなのか、だれにお願いをしているのか、自分でもわからなかった。それでも、おねがい、おねがい、という懇願は止まなかった。
 出産を経験した友人たちに興味本位で「どうだった」と質問したことがある。「痛かった」という意見もあれば、「思ったほどじゃない」という楽観論もあった。佐知子はきっと前者だろう。だってずっと、「痛い、痛い」と繰り返している。「大丈夫、大丈夫」と啓太が合いの手みたいに繰り返す。
 どうする、ここで生まれたら?
 無事に生まれてくれれば、ぜんぜんかまわない。わたしの車がちょっとくらい汚れたりしたって、そんなのぜんぜんかまわない。
 痛い、痛い、と佐知子が声を漏らす。
 交差点にさしかかり、ブレーキを踏みかけたところで、赤だった信号が青にかわる。
 どうして「わたしの車で」なんて言ったんだろう。救急車を待ったほうがよかったんじゃないの? そうすれば、万一のときだって救急隊員の手で適切な対応ができたかもしれない。でも、ダメだ、そんなこと考えてももう遅い。これが最善だと思った。これが最善だと思ったんだ。だから、おねがい、おねがい。
 次の信号も青だった。
 その次の信号も、青だった。
 突然、葵は理解した。
 自分がお願いしているのは、信号たちにだ。あるいは神様のような存在に対してだ。それとも、もしかしたら、自分の父親に向かって唱えているのかもしれない。おねがい、おねがい、と。
 おねがい。お父さんに起こった奇跡をわたしにもちょうだい。
 雨の中、暗くなった空を背景に、信号機の色もにじんで見えた。
 その光景に、自分が生まれた日、父が車を運転しながら目にしたであろう場面が、重なって見えた。
 繰り返し聞かせてもらったストーリーは、自分の記憶も同然に、細部までくっきりとしていた。
「途中の信号がぜんぶ青だったんだ」
 父の決め台詞だ。嘘だと思うかもしれないけどな、と父はそうも言ったが、一度たりとも疑ったことはない。そして、父の話はこう締めくくられる。
「だから、おまえの名前を、あおいにしたんだよ」
 そうだ。わたしの名前は、あおいだ。
 信号ぜんぶを青色に変えてしまう名前なんだ。
 だから、おねがい。
 おねがいだから間に合って。
 おねがいだから!
 そして、次の信号も青だった。

     後部座席に原田夫妻を乗せ、葵はエンジンをかけた。
 静かに、車が目を覚ます。
 ライトを点灯させ、ワイパーを最速で動かし、「行きますね」と後方に告げてアクセルを踏んだ。
 御花の敷地から出ると、普段ならタクシーのいるあたりも、水たまりを雨が叩いているだけだった。
 ほらね、やっぱり、と葵は納得する。自分の読みが当たった。
 広くはない道を慎重に進み、角を左へ曲がる。出てすぐの信号は青だった。いちばん近い産科までの道のりを脳裏に表示させながら、二車線の県道へ出る。
 後部座席から、「痛い、痛い」と掠れた呻きが聞こえてくる。「大丈夫、大丈夫」と、自分自身に言い聞かせるような啓太の声も聞こえてくる。
 二人のやりとりを背に、葵も頭で唱えた。
 ——おねがい、おねがい。
 なにがお願いなのか、だれにお願いをしているのか、自分でもわからなかった。それでも、おねがい、おねがい、という懇願は止まなかった。
 出産を経験した友人たちに興味本位で「どうだった」と質問したことがある。「痛かった」という意見もあれば、「思ったほどじゃない」という楽観論もあった。佐知子はきっと前者だろう。だってずっと、「痛い、痛い」と繰り返している。「大丈夫、大丈夫」と啓太が合いの手みたいに繰り返す。
 どうする、ここで生まれたら?
 無事に生まれてくれれば、ぜんぜんかまわない。わたしの車がちょっとくらい汚れたりしたって、そんなのぜんぜんかまわない。
 痛い、痛い、と佐知子が声を漏らす。
 交差点にさしかかり、ブレーキを踏みかけたところで、赤だった信号が青にかわる。
 どうして「わたしの車で」なんて言ったんだろう。救急車を待ったほうがよかったんじゃないの? そうすれば、万一のときだって救急隊員の手で適切な対応ができたかもしれない。でも、ダメだ、そんなこと考えてももう遅い。これが最善だと思った。これが最善だと思ったんだ。だから、おねがい、おねがい。
 次の信号も青だった。
 その次の信号も、青だった。
 突然、葵は理解した。
 自分がお願いしているのは、信号たちにだ。あるいは神様のような存在に対してだ。それとも、もしかしたら、自分の父親に向かって唱えているのかもしれない。おねがい、おねがい、と。
 おねがい。お父さんに起こった奇跡をわたしにもちょうだい。
 雨の中、暗くなった空を背景に、信号機の色もにじんで見えた。
 その光景に、自分が生まれた日、父が車を運転しながら目にしたであろう場面が、重なって見えた。
 繰り返し聞かせてもらったストーリーは、自分の記憶も同然に、細部までくっきりとしていた。
「途中の信号がぜんぶ青だったんだ」
 父の決め台詞だ。嘘だと思うかもしれないけどな、と父はそうも言ったが、一度たりとも疑ったことはない。そして、父の話はこう締めくくられる。
「だから、おまえの名前を、あおいにしたんだよ」
 そうだ。わたしの名前は、あおいだ。
 信号ぜんぶを青色に変えてしまう名前なんだ。
 だから、おねがい。
 おねがいだから間に合って。
 おねがいだから!
 そして、次の信号も青だった。