ほとんどのお客様が二階へあがったあとの一階ロビーで、賢一郎と岡部は目を見合わせていた。
 野球帽をかぶったタケルがリュックからノートを取り出し、ページを開いて賢一郎にこう頼んだからだ。
「宗高さんのサインをください」
 突然のお願いに賢一郎が言葉を失った。岡部も何が何やらといった表情を浮かべていた。
「タケル、いきなりそんなお願いしても、困るでしょう。すみません、説明が足りなくって」と母親が助け舟を出した。
 その年の春、タケルは小学校の課題で作文を書いた。テーマは「私のヒーロー」で、タケルは前の夏に旅先である御花でひとりの男性に助けてもらったことを書いたのだという。
「でも、お名前をうかがっていなくて」
「だってあのときは、びっくりしてたから」
 恥ずかしさもあってか、タケルは強い口調で補足した。
「それで今日は、あらためて御礼を言わせていただくだけじゃなくて、この子、サインももらうんだって」
「サイン? いやあ、タケルくん、おじさんね、ただのおじさんだから、いいよ、作文にも『おじさん』って書いててくれたら、ヒーローだなんて、そんな、嬉しいけどさ、いやあ」
 しきりに照れる賢一郎の隣で、岡部は思いついた顔になり「いいじゃないですか」と声を大きくした。
「いまだってお客様を助けてきたんだし、ヒーローじゃないですか。それにGM、サインあるでしょ」
「いや、ちょ、えぇ……」
 弱り顔の賢一郎に代わって、岡部がタケルからノートとサインペンを受け取り、「あっちで書きましょうか」とフロントのカウンターへ歩いていった。
「岡部くん、やっぱあのこと根に持ってる?」
 岡部を追いかけながら賢一郎は小声で尋ねた。岡部はあっけらかんと聞き返した。
「なんですか、あのことって」
「去年の、サインのこと」
「いいえ」
 真顔で返したが、賢一郎は疑いの眼差しを引っ込めなかった。
「あのさ、今日のことだって、ナビさんのこと、俺、隠してたわけじゃないからね。言ったほうがいいか悩んだけど、でもさ、俺は自分のできるベストなアーティストを呼んだんであって、罪悪感が先にあったわけじゃ」
「だから根に持ってませんって。今回のことも」
「ほんと?」
 執拗な問いかけに、半ば呆れつつ岡部は言った。
「本当は怒ってます。しつこく怒ってます。でも、許してあげます。ここにさっさとサイン書いたら、許してあげます」
 えええ、と賢一郎は消えるような声を漏らし、それから、慣れた手つきでサインを書いた。

     ほとんどのお客様が二階へあがったあとの一階ロビーで、賢一郎と岡部は目を見合わせていた。
 野球帽をかぶったタケルがリュックからノートを取り出し、ページを開いて賢一郎にこう頼んだからだ。
「宗高さんのサインをください」
 突然のお願いに賢一郎が言葉を失った。岡部も何が何やらといった表情を浮かべていた。
「タケル、いきなりそんなお願いしても、困るでしょう。すみません、説明が足りなくって」と母親が助け舟を出した。
 その年の春、タケルは小学校の課題で作文を書いた。テーマは「私のヒーロー」で、タケルは前の夏に旅先である御花でひとりの男性に助けてもらったことを書いたのだという。
「でも、お名前をうかがっていなくて」
「だってあのときは、びっくりしてたから」
 恥ずかしさもあってか、タケルは強い口調で補足した。
「それで今日は、あらためて御礼を言わせていただくだけじゃなくて、この子、サインももらうんだって」
「サイン? いやあ、タケルくん、おじさんね、ただのおじさんだから、いいよ、作文にも『おじさん』って書いててくれたら、ヒーローだなんて、そんな、嬉しいけどさ、いやあ」
 しきりに照れる賢一郎の隣で、岡部は思いついた顔になり「いいじゃないですか」と声を大きくした。
「いまだってお客様を助けてきたんだし、ヒーローじゃないですか。それにGM、サインあるでしょ」
「いや、ちょ、えぇ……」
 弱り顔の賢一郎に代わって、岡部がタケルからノートとサインペンを受け取り、「あっちで書きましょうか」とフロントのカウンターへ歩いていった。
「岡部くん、やっぱあのこと根に持ってる?」
 岡部を追いかけながら賢一郎は小声で尋ねた。岡部はあっけらかんと聞き返した。
「なんですか、あのことって」
「去年の、サインのこと」
「いいえ」
 真顔で返したが、賢一郎は疑いの眼差しを引っ込めなかった。
「あのさ、今日のことだって、ナビさんのこと、俺、隠してたわけじゃないからね。言ったほうがいいか悩んだけど、でもさ、俺は自分のできるベストなアーティストを呼んだんであって、罪悪感が先にあったわけじゃ」
「だから根に持ってませんって。今回のことも」
「ほんと?」
 執拗な問いかけに、半ば呆れつつ岡部は言った。
「本当は怒ってます。しつこく怒ってます。でも、許してあげます。ここにさっさとサイン書いたら、許してあげます」
 えええ、と賢一郎は消えるような声を漏らし、それから、慣れた手つきでサインを書いた。