松濤館二階に位置する宴会場「元禄の間」で、翌週のイベントの打合せを行っていた総料理長の河村とサービス部の瀬ノ元は、一階から聞こえるざわめきの正体を確かめるべく部屋を出た。目にしたのは、階段までお客様でいっぱいの異常事態だった。
「なんだい、これは」と河村が聞いた。
「雨じゃないですか、さっきの雷」
 瀬ノ元の推測に、河村は「なるほどな」とうなずいた。
 階下から波場の声が響いてきた。
「通り雨だとは思いますが、雷も鳴っていたので避難していただきました。しばらくこちらでお待ちください」
 よく通る声だった。いたずらに大きく叫び立てるのではなく、聞く者を落ち着かせる堂々とした語りに河村は感心した。一階では結月の指示のもと、スタッフたちがお客様にタオルを配っていた。
「なにか温かいものでも用意しましょうか」
 瀬ノ元の提案に河村がうなずき、二人は厨房へ移動した。
 同じころ、事務所から出てきた細田が波場を捕まえた。
「波場くん、ここじゃ窮屈だ。元禄の間を開けよう」
「ですよね」と波場は即座に返した。「いま使ってないですよね。細田さん、社長見ませんでしたか」
「いいよ。社長には僕から伝える」
 すべて承知したと語るような細田の言葉に、波場は表情をくずした。
「頼りになりますね」
「きみみたいに声を張り上げるのが苦手なだけだよ」
 ふたりは無言で笑った。
 そこへ高校生グループがやってきて、なにか手伝えることはありませんかと尋ねた。
「おお、あるある、たっぷりあるぞ。まずは二階の宴会場で椅子を出してもらおうか」

     岡部が事務所で賢一郎を探しているあいだに、一階ロビーは雨から逃れてきたお客様でいっぱいになっていた。壁際に宮崎親子を見つけた岡部は申し訳ない気持ちとともに、そちらへ近づいていった。
「すみません、宗高がちょっと席をはずしてるみたいで。それに、なんだかすごいことになってますね」
「雨みたいですね」
 それだけではないことを強調するつもりか、表で雷が鳴った。すぐ近くに落ちたような轟音が壁まで震わせ、びっくりしながら入口側を振り返った岡部の目が捉えたのは、老人を背負った賢一郎の姿だった。たったいま外から駆け込んできたらしく、ワイシャツが体に張りつくほどびしょ濡れだった。一方で、背負われた高齢男性のポロシャツはほとんど濡れていない。
「すみません、ちょっとこちら、空けていただいてもいいですか」
 岡部がソファに腰掛けていた若い男女に頼むと、ふたりが立ち上がってくれた。
「GM! こっちへ!」
 岡部の声に反応した賢一郎は、助かったあ、と無言で口を動かしながら、老人をソファにおろした。
「どうされたんですか」
「こちらのお客様が、外で、雷に驚かれて」
「腰が抜けたんです」と、当の男性が後を続けた。「それで雨も降り出すでしょう。こちらの方に助けていただいて」
 男性が語るあいだに結月がバスタオルを持ってきた。
「いやあ、ぼくのほうこそ、傘を持っていただいて助かりました」
 タオルで頭と顔を拭いながら賢一郎は笑った。
「あ、そうだGM、こちら」
「宮崎です。昨年の夏に、たすけていただきました」
 タケルの母の言葉に、賢一郎は顔の向きをかえた。
「ええ? タケルくん? ほんとに? いや、おっきくなったねえ!」
 目をぱちくりさせながら、賢一郎はタオルを首に掛け直した。

     松濤館二階に位置する宴会場「元禄の間」で、翌週のイベントの打合せを行っていた総料理長の河村とサービス部の瀬ノ元は、一階から聞こえるざわめきの正体を確かめるべく部屋を出た。目にしたのは、階段までお客様でいっぱいの異常事態だった。
「なんだい、これは」と河村が聞いた。
「雨じゃないですか、さっきの雷」
 瀬ノ元の推測に、河村は「なるほどな」とうなずいた。
 階下から波場の声が響いてきた。
「通り雨だとは思いますが、雷も鳴っていたので避難していただきました。しばらくこちらでお待ちください」
 よく通る声だった。いたずらに大きく叫び立てるのではなく、聞く者を落ち着かせる堂々とした語りに河村は感心した。一階では結月の指示のもと、スタッフたちがお客様にタオルを配っていた。
「なにか温かいものでも用意しましょうか」
 瀬ノ元の提案に河村がうなずき、二人は厨房へ移動した。
 同じころ、事務所から出てきた細田が波場を捕まえた。
「波場くん、ここじゃ窮屈だ。元禄の間を開けよう」
「ですよね」と波場は即座に返した。「いま使ってないですよね。細田さん、社長見ませんでしたか」
「いいよ。社長には僕から伝える」
 すべて承知したと語るような細田の言葉に、波場は表情をくずした。
「頼りになりますね」
「きみみたいに声を張り上げるのが苦手なだけだよ」
 ふたりは無言で笑った。
 そこへ高校生グループがやってきて、なにか手伝えることはありませんかと尋ねた。
「おお、あるある、たっぷりあるぞ。まずは二階の宴会場で椅子を出してもらおうか」

     岡部が事務所で賢一郎を探しているあいだに、一階ロビーは雨から逃れてきたお客様でいっぱいになっていた。壁際に宮崎親子を見つけた岡部は申し訳ない気持ちとともに、そちらへ近づいていった。
「すみません、宗高がちょっと席をはずしてるみたいで。それに、なんだかすごいことになってますね」
「雨みたいですね」
 それだけではないことを強調するつもりか、表で雷が鳴った。すぐ近くに落ちたような轟音が壁まで震わせ、びっくりしながら入口側を振り返った岡部の目が捉えたのは、老人を背負った賢一郎の姿だった。たったいま外から駆け込んできたらしく、ワイシャツが体に張りつくほどびしょ濡れだった。一方で、背負われた高齢男性のポロシャツはほとんど濡れていない。
「すみません、ちょっとこちら、空けていただいてもいいですか」
 岡部がソファに腰掛けていた若い男女に頼むと、ふたりが立ち上がってくれた。
「GM! こっちへ!」
 岡部の声に反応した賢一郎は、助かったあ、と無言で口を動かしながら、老人をソファにおろした。
「どうされたんですか」
「こちらのお客様が、外で、雷に驚かれて」
「腰が抜けたんです」と、当の男性が後を続けた。「それで雨も降り出すでしょう。こちらの方に助けていただいて」
 男性が語るあいだに結月がバスタオルを持ってきた。
「いやあ、ぼくのほうこそ、傘を持っていただいて助かりました」
 タオルで頭と顔を拭いながら賢一郎は笑った。
「あ、そうだGM、こちら」
「宮崎です。昨年の夏に、たすけていただきました」
 タケルの母の言葉に、賢一郎は顔の向きをかえた。
「ええ? タケルくん? ほんとに? いや、おっきくなったねえ!」
 目をぱちくりさせながら、賢一郎はタオルを首に掛け直した。