「アイドル、じゃないんだけどね、パパも大好きな人。ドラマの主題歌とかも歌ってる人なんだ」
「へえ、それはたのしみだね。よかったね、がんばったね」
 大人びた口調でつむぎに褒められ、賢一郎はにっこりと笑った。
「一緒に来るミュージシャンもすごい人なんだよ」
「はい、じゃあ、ママは?」
 父の話を、つむぎは容赦なく断ち切った。千鶴は娘の仕切りぶりに感心しながら質問した。
「なんか、あれだね、会議みたい。幼稚園でもこういう感じでお話するの?」
「するよ、だから、ママ、よかったこと」
「えー、ママ? ママね、いっぱいあるよ、よかったこと。まず、きょうもつむぎが元気だったことでしょ」
「そういうのはいいの」
 ぴしゃりと言って、つむぎはプチトマトを箸でつまんで口に運んだ。
「ひとつだけ?」
 尋ねる千鶴に、つむぎは口を閉じたまま、うん、とおおきくうなずいた。
「じゃあね、よかったっていうか、嬉しかったことなんだけど」
 話しながら、千鶴の脳裏には、つむぎがボールを蹴っていた姿が蘇った。それだって、よかったことのひとつに違いない。いま、こうして、立派な司会者役を演じていることも。
「東京からね、お客様が来てくれて、カメラマンさんなんだけど、何年ぶりだろ、三年、四年かな、お会いするの。このあいだはね、東京で個展、あ、個展って言ってね、その人が撮った写真を、いっぱい、ギャラリーに飾ってるところに行ったんだけど、その人がね、こっち来るの何年ぶりかな、前に御花の写真も撮ってもらったことがあって」
「あ、田尻さん?」
 賢一郎が言って、千鶴は「そうそう、田尻さん」と答えた。
「お仕事で柳川に来たらしくて、日帰りなんだけど、合間見つけてうちにもまわってくれて、大広間が工事中だって知って残念そうだったなあ。夏には工事終わるから、ぜひまた来てくださいってお願いしたの」
「それのどこが、よかったことなの?」
 つむぎが、首をかしげた。
「いいことだよ、お世話になった方に再会できることもだし、わざわざ時間をつくって会いに来てくれたこともよかったことだし、それにね、突然だったこともあって、ママ、びっくりして、いらっしゃいませ、じゃなくて、『田尻さん! おかえりなさい!』って言っちゃったの」
「ええ?」と反応したのは賢一郎だった。やや誇張した驚き方に、つむぎも笑った。
「でもさ、まちがってないよなって思ったんだよ、何度か来ていただいてるし、お客様はお客様なんだけど、ねえ、間違ってないでしょう? 田尻さんもね、明日からまた海外に行かれるとかで、帰るときにさ、行ってきますって」
「カイガイって、ガイコクでしょ、いいなー、いきたいなー」
「つむぎは、どこ行きたいんだ」
 賢一郎が聞くと、これもどこで仕入れてきたのか、つむぎは流暢に五つ、六つと国の名前をあげていった。
 いつかこの子も、ここを出ていくんだなと、千鶴の心にちいさな裂け目が生じた。今みたいに、毎日顔をあわせたり、言葉を交わしたり、できなくなって、たまに会って、会話もいちいち「積もる話」になるんだろう。
 親として、そのことを考えたことがなかったわけではなかった。でも、その晩の食卓では、かつてないほど胸に刺さってきた。そう。あと十年も経てば、娘も将来について計画を持つだろう。いつか、御花で働く未来もあるかもしれない。それを強制するつもりはないが、でも、御花に戻るのもいいな、そう思ってもらえるだけの場所でありつづけたい。
 食事を終え、食器を片付けながら、その日、スタッフと交わした会話を千鶴は思い出した。サービス部の瀬ノ元が、アルバイトの学生にこんなことを教えたのだという。
「お客様への挨拶に心を込めるのは、すごく難しいんだよ。たとえば、またお越しください、と口にするときには、それに見合うだけのサービスができていなくちゃいけないし、また来たい、また来てよかったと実感していただけるだけの質を保ち続けなくちゃいけない。せっかく来ていただいたのに、前のほうが良かったって言われたら、こっちの言葉が嘘になる。またお越しくださいっていうのは、自分たちにそれだけの覚悟がありますよっていう宣言なんだから」
 お客様に対してだけじゃない。千鶴は思った。また来てね。いつでも帰ってきていいよ。そう口にするのは難しいことではないが、また来たい、いつか帰りたい、そう思ってもらうには「待つ」だけでは、きっと足りない。
「ママ、おてつだいするよ」
 自分の食器を台所まで運んできたつむぎが、洗面所の踏み台を持ってきた。シンクの前に並んで、いつもよりずっと時間がかかったが、いつもよりずっと楽しい皿洗いになった。
「ママさー、今日のよかったことをね、いま聞かれたら、これって言うだろな」
「これ?」
「そう、つむぎといっしょにお皿洗えたこと」
「えー、こんなんがいいの? ママ、かわってるねえ」
 けらけらと笑う娘の横で、千鶴も、よく似た笑顔を浮かべた。

「アイドル、じゃないんだけどね、パパも大好きな人。ドラマの主題歌とかも歌ってる人なんだ」
「へえ、それはたのしみだね。よかったね、がんばったね」
 大人びた口調でつむぎに褒められ、賢一郎はにっこりと笑った。
「一緒に来るミュージシャンもすごい人なんだよ」
「はい、じゃあ、ママは?」
 父の話を、つむぎは容赦なく断ち切った。千鶴は娘の仕切りぶりに感心しながら質問した。
「なんか、あれだね、会議みたい。幼稚園でもこういう感じでお話するの?」
「するよ、だから、ママ、よかったこと」
「えー、ママ? ママね、いっぱいあるよ、よかったこと。まず、きょうもつむぎが元気だったことでしょ」
「そういうのはいいの」
 ぴしゃりと言って、つむぎはプチトマトを箸でつまんで口に運んだ。
「ひとつだけ?」
 尋ねる千鶴に、つむぎは口を閉じたまま、うん、とおおきくうなずいた。
「じゃあね、よかったっていうか、嬉しかったことなんだけど」
 話しながら、千鶴の脳裏には、つむぎがボールを蹴っていた姿が蘇った。それだって、よかったことのひとつに違いない。いま、こうして、立派な司会者役を演じていることも。
「東京からね、お客様が来てくれて、カメラマンさんなんだけど、何年ぶりだろ、三年、四年かな、お会いするの。このあいだはね、東京で個展、あ、個展って言ってね、その人が撮った写真を、いっぱい、ギャラリーに飾ってるところに行ったんだけど、その人がね、こっち来るの何年ぶりかな、前に御花の写真も撮ってもらったことがあって」
「あ、田尻さん?」
 賢一郎が言って、千鶴は「そうそう、田尻さん」と答えた。
「お仕事で柳川に来たらしくて、日帰りなんだけど、合間見つけてうちにもまわってくれて、大広間が工事中だって知って残念そうだったなあ。夏には工事終わるから、ぜひまた来てくださいってお願いしたの」
「それのどこが、よかったことなの?」
 つむぎが、首をかしげた。
「いいことだよ、お世話になった方に再会できることもだし、わざわざ時間をつくって会いに来てくれたこともよかったことだし、それにね、突然だったこともあって、ママ、びっくりして、いらっしゃいませ、じゃなくて、『田尻さん! おかえりなさい!』って言っちゃったの」
「ええ?」と反応したのは賢一郎だった。やや誇張した驚き方に、つむぎも笑った。
「でもさ、まちがってないよなって思ったんだよ、何度か来ていただいてるし、お客様はお客様なんだけど、ねえ、間違ってないでしょう? 田尻さんもね、明日からまた海外に行かれるとかで、帰るときにさ、行ってきますって」
「カイガイって、ガイコクでしょ、いいなー、いきたいなー」
「つむぎは、どこ行きたいんだ」
 賢一郎が聞くと、これもどこで仕入れてきたのか、つむぎは流暢に五つ、六つと国の名前をあげていった。
 いつかこの子も、ここを出ていくんだなと、千鶴の心にちいさな裂け目が生じた。今みたいに、毎日顔をあわせたり、言葉を交わしたり、できなくなって、たまに会って、会話もいちいち「積もる話」になるんだろう。
 親として、そのことを考えたことがなかったわけではなかった。でも、その晩の食卓では、かつてないほど胸に刺さってきた。そう。あと十年も経てば、娘も将来について計画を持つだろう。いつか、御花で働く未来もあるかもしれない。それを強制するつもりはないが、でも、御花に戻るのもいいな、そう思ってもらえるだけの場所でありつづけたい。
 食事を終え、食器を片付けながら、その日、スタッフと交わした会話を千鶴は思い出した。サービス部の瀬ノ元が、アルバイトの学生にこんなことを教えたのだという。
「お客様への挨拶に心を込めるのは、すごく難しいんだよ。たとえば、またお越しください、と口にするときには、それに見合うだけのサービスができていなくちゃいけないし、また来たい、また来てよかったと実感していただけるだけの質を保ち続けなくちゃいけない。せっかく来ていただいたのに、前のほうが良かったって言われたら、こっちの言葉が嘘になる。またお越しくださいっていうのは、自分たちにそれだけの覚悟がありますよっていう宣言なんだから」
 お客様に対してだけじゃない。千鶴は思った。また来てね。いつでも帰ってきていいよ。そう口にするのは難しいことではないが、また来たい、いつか帰りたい、そう思ってもらうには「待つ」だけでは、きっと足りない。
「ママ、おてつだいするよ」
 自分の食器を台所まで運んできたつむぎが、洗面所の踏み台を持ってきた。シンクの前に並んで、いつもよりずっと時間がかかったが、いつもよりずっと楽しい皿洗いになった。
「ママさー、今日のよかったことをね、いま聞かれたら、これって言うだろな」
「これ?」
「そう、つむぎといっしょにお皿洗えたこと」
「えー、こんなんがいいの? ママ、かわってるねえ」
 けらけらと笑う娘の横で、千鶴も、よく似た笑顔を浮かべた。