実家から新しい職場までは、車と電車を乗り継いでいかなくてはならない。最寄り駅まで車で十五分。電車での移動も含めれば、片道一時間超の道のりだ。思えば、新しい職場に通い出してから、信号に引っ掛かることが多くなった。いや、御花に通勤していたときも、あたりまえに赤信号に止められることはあったのだろうから(よくおぼえていないが)、変わったのは、自分の意識なのだろう。
 止まるたびに、こう思う。
 ほらね、やっぱり。
 遅番シフトで閉店作業を終えてから、同僚と食事をしたあとの帰り道だった。時刻は夜の十一時を過ぎて、世界の端っこで赤信号にとおせんぼされた。背を丸めて、ハンドルに顎をのせた。ブレーキペダルを踏んだ足に力を集中させて、目線はぼんやりと夜空の赤色を見つめていた。ハイブリッド車の静けさが夜の景色にも静寂を 強いているようだった。
 突然、助手席に放ったハンドバッグの中で、スマホがふるえだした。
 ちらり、と目を横にやり、仕事の連絡かな、と推測した。素敵な招待状のデザインが見つかった。海外のサイトで最高のドレス見つけた。こんどのノベルティに手袋はどうだろう。従業員同士のグループトークに、そんな話題が投げ込まれるのも日常茶飯事だ。帰って、お風呂に入って、寝る前にチェックしよう。いまは運転中だから、スマホを見るのは危ないし。
 そう思うのだが、信号はまだ赤だった。我慢比べのように、長いこと、色は変わらなかった。
 ようやく帰宅して、先の決心に従い、寝る準備まで済ませてから、スマホをチェックした。予想ははずれた。メッセージを送ってきたのは、御花で同僚だった藤野優実だった。

——ひさしぶり。突然だけど、来週の木曜日に天神で開催されるマルシェに行こうと思ってて、葵ちゃん、おやすみだったりしないかな。

 カレンダーをチェックして、その日が休みであることを確認してから、大急ぎで葵は返信した。しかし、藤野からの返信はなかった。既読すらつかなかった。時刻はすでに日付をまたいでいた。ほらね、やっぱり、とつい口を動かしてしまう。こんなとこにも赤信号。

 藤野からの返信は、翌朝になってもこなかった。葵は落ち込んだ気持ちのまま出勤した。職場でお客様と話をしているあいだは気分も切り替えられたが、ふとした瞬間に、藤野からの返信が来ていないか、気になった。
 お昼休みに真っ先にスマホを見た。藤野から、返事が遅れたことへの謝罪(スマホの充電が切れているのに気づかなかった)と、マルシェに同行してもらえると嬉しいというコメントがあった。葵は喜び勇んでOKの返事を送った。

 待ち合わせは西鉄福岡天神駅にした。同じ電車で行こうよと藤野は提案してきたが、「職場に届け物があるから、天神で待ってますね」と葵はちいさな嘘をついた。電車で隣に座ってうまく話せるか、自信がなかったからだ。
 葵が駅に着いたのは午前九時半。約束の三十分前だった。改札を出て、人の流れを眺めながら、藤野が来るのを待った。ついたよー、というメッセージがスマホに届いた。すこし背伸びをして、葵は改札を見渡した。すぐに見つけた。藤野も葵を見つけて表情をほころばせた。
「ひさしぶり、元気だった?」
「元気です、元気ですよ! 藤野さんも」
「わたしねー、こないだ風邪で寝込んだ」
「え、大丈夫ですか?」
「うん、もう元気。ね、仕事、大丈夫だった? 無理させてない?」
「ぜんぜんぜんぜん。ほんと、ちょうど今日お休みだったからよかったです」
「ほんと? ほんとにほんと?」
 くりかえし尋ねる藤野に、葵は笑いをおさえきれなかった。
「ほんとですって」
「ほんと? なら、よかった。ほら、友達みんな平日はおやすみじゃないから」
「あー、ですよね。わたし、いまの職場もそうですよ。土日出勤」
「そうなの? 詳しく聞かせてよ、ね、歩きながら、あ、でも先にお茶する?」
 いやいや、とやわらかなツッコミを挟んでから、とりあえずマルシェ行きましょうよ、と葵は促した。藤野も「そうだよね」と首から提げたミラーレスカメラに手を添えた。
 駅から階段をおりて、ちょうど青だった横断歩道を渡った。その日は天神中央公園でたくさんの雑貨店や喫茶店、人気のパン屋などが集まってのマルシェが開催されていた。葵は自分の新しい職場のことを簡単に説明し、披露宴をガーデンパーティ風にしたいというお客様や、自営業の方でマルシェ風にしたいという要望もあることから、視察という意味でも誘ってもらえてよかったと、感謝を述べた。
「実はね、御花でも、こんどの秋あたりにマルシェをやる計画で」
 藤野の発言に、葵は表情を明るくさせた。
「いいですね、それ、いいなあ、わたしもやりたかった」
 最後の一言は隠しようもない本心だったが、口にしてすぐ、しまった、と葵はうつむいた。
「葵ちゃんも来てよ。あ、でも多分週末だから、おやすみ、とれたらね」
 藤野のほうが残念そうに言うので、葵は努めて元気な声を出した。
「でもでも、藤野さんのブログでの報告とか、楽しみにしてます」
 中央公園では、入口から人で賑わっていた。すぐにコーヒーを買った。苦味まじりの熱が春の冷たさをどこかへ流していった。出店者たちのテントもそれぞれに趣向が凝らされ、色とりどりのガーランドが飾られていたり、大型犬が店番のように寝そべっていたり、パッチワークのエプロンを着けた背の高い男性がバルーンアートに挑んだりと、どちらを向いても楽しげだった。藤野はせっせとカメラを構えてはシャッターを切った。葵も端から端まで、商品やディスプレイなどをつぶさにチェックしていった。
「すごいねえ」と藤野は感心を口にして、気になる店の店主の顔も写真におさめていった。名刺も用意しておいて、御花から来ていること、秋にマルシェを計画していることも言い添えた。どの人物も藤野の言葉に耳を傾け、マルシェを開催するにあたってのノウハウや、どういう雰囲気、どういう条件なら自分も出店したいかといった意見を教えてくれた。ひとつ会話を終えるごとに、藤野は「すごいねえ、勉強になるねえ」と嬉しそうに言った。その姿に、葵も、すごいなあ、と感じた。
 マルシェに誘われたとき、葵は、気分転換になるかと期待した。もしかしたら、愚痴だって言うつもりだったかもしれない。事前に準備していたわけではないが、きっかけさえあれば、なんだって口に出しただろう。新宿で御花の名前を出したのに理解してもらえなかった。ひどいですよね! そう言って、ほんとだね、と一緒になって憤慨してもらえたら、それでいくらか心が安らいだだろう。でも、と、焼き立てのクッキーを試食する藤野を横目に、葵は反省した。
 でも、それでなにか変わるだろうか。
 愚痴を言うのは大切だ。息抜きも、ガス抜きも、生きていくには必要だ。でも、それで終わったら、なんにも変わらない。
 突然、くやしさに襲われた。
 どうしてあのとき、御花を売り込めなかったんだろう。
 新宿の社長に「もっと詳しく教えてよ」と興味を持たせ、身を乗り出させることが、どうしてできなかったのだろう。
 藤野が離れていくのは見えていたが、葵は足を動かせずにいた。
「葵ちゃん」
 名前を呼ばれても、すぐには反応できなかった。無性に悔しくて、それは自分に対する腹立ちで、自分の無力さについての苛立ちだった。赤信号にしているのは、私じゃないか。
「だいじょうぶ?」
「あ、大丈夫です。大丈夫です」
 性急な返答に、藤野は笑った。
「二回言うって、あんまり大丈夫じゃない気がする」
「ほんとに、あの、ほら、あっちのお店も見ましょうよ」
 藤野のまなざしには、まだすこし気遣う色がうかがえたものの、葵はかつての同僚の腕を取って、同じ職場の人間だったときにはできなかったくらいに距離を縮めて、あみぐるみを陳列しているテントへ足を進めた。
 それからは、楽しむ気持ちがフル稼働していた。同時に、しっかりと頭を働かせた。結婚披露宴をガーデンパーティのスタイルにして、そこにどんな仕掛けがあれば喜ばれるのか。ケーキビュッフェはある。ドリンクバーもある。でも、焼き立てパンのビュッフェは、事例になかった。ウェルカムボードにぬいぐるみを並べるのは見たことがあるが、あみぐるみは、どうだっただろう? 会場の飾り付けにテントを使ったら、どんな空間に仕上がるだろうか? なにを見ても、なにかを考えることができた。どんなところにも、楽しむためのタネは隠れていそうだった。

 実家から新しい職場までは、車と電車を乗り継いでいかなくてはならない。最寄り駅まで車で十五分。電車での移動も含めれば、片道一時間超の道のりだ。思えば、新しい職場に通い出してから、信号に引っ掛かることが多くなった。いや、御花に通勤していたときも、あたりまえに赤信号に止められることはあったのだろうから(よくおぼえていないが)、変わったのは、自分の意識なのだろう。
 止まるたびに、こう思う。
 ほらね、やっぱり。
 遅番シフトで閉店作業を終えてから、同僚と食事をしたあとの帰り道だった。時刻は夜の十一時を過ぎて、世界の端っこで赤信号にとおせんぼされた。背を丸めて、ハンドルに顎をのせた。ブレーキペダルを踏んだ足に力を集中させて、目線はぼんやりと夜空の赤色を見つめていた。ハイブリッド車の静けさが夜の景色にも静寂を強いているようだった。
 突然、助手席に放ったハンドバッグの中で、スマホがふるえだした。
 ちらり、と目を横にやり、仕事の連絡かな、と推測した。素敵な招待状のデザインが見つかった。海外のサイトで最高のドレス見つけた。こんどのノベルティに手袋はどうだろう。従業員同士のグループトークに、そんな話題が投げ込まれるのも日常茶飯事だ。帰って、お風呂に入って、寝る前にチェックしよう。いまは運転中だから、スマホを見るのは危ないし。
 そう思うのだが、信号はまだ赤だった。我慢比べのように、長いこと、色は変わらなかった。
 ようやく帰宅して、先の決心に従い、寝る準備まで済ませてから、スマホをチェックした。予想ははずれた。メッセージを送ってきたのは、御花で同僚だった藤野優実だった。

——ひさしぶり。突然だけど、来週の木曜日に天神で開催されるマルシェに行こうと思ってて、葵ちゃん、おやすみだったりしないかな。

 カレンダーをチェックして、その日が休みであることを確認してから、大急ぎで葵は返信した。しかし、藤野からの返信はなかった。既読すらつかなかった。時刻はすでに日付をまたいでいた。ほらね、やっぱり、とつい口を動かしてしまう。こんなとこにも赤信号。

 藤野からの返信は、翌朝になってもこなかった。葵は落ち込んだ気持ちのまま出勤した。職場でお客様と話をしているあいだは気分も切り替えられたが、ふとした瞬間に、藤野からの返信が来ていないか、気になった。
 お昼休みに真っ先にスマホを見た。藤野から、返事が遅れたことへの謝罪(スマホの充電が切れているのに気づかなかった)と、マルシェに同行してもらえると嬉しいというコメントがあった。葵は喜び勇んでOKの返事を送った。

 待ち合わせは西鉄福岡天神駅にした。同じ電車で行こうよと藤野は提案してきたが、「職場に届け物があるから、天神で待ってますね」と葵はちいさな嘘をついた。電車で隣に座ってうまく話せるか、自信がなかったからだ。
 葵が駅に着いたのは午前九時半。約束の三十分前だった。改札を出て、人の流れを眺めながら、藤野が来るのを待った。ついたよー、というメッセージがスマホに届いた。すこし背伸びをして、葵は改札を見渡した。すぐに見つけた。藤野も葵を見つけて表情をほころばせた。
「ひさしぶり、元気だった?」
「元気です、元気ですよ! 藤野さんも」
「わたしねー、こないだ風邪で寝込んだ」
「え、大丈夫ですか?」
「うん、もう元気。ね、仕事、大丈夫だった? 無理させてない?」
「ぜんぜんぜんぜん。ほんと、ちょうど今日お休みだったからよかったです」
「ほんと? ほんとにほんと?」
 くりかえし尋ねる藤野に、葵は笑いをおさえきれなかった。
「ほんとですって」
「ほんと? なら、よかった。ほら、友達みんな平日はおやすみじゃないから」
「あー、ですよね。わたし、いまの職場もそうですよ。土日出勤」
「そうなの? 詳しく聞かせてよ、ね、歩きながら、あ、でも先にお茶する?」
 いやいや、とやわらかなツッコミを挟んでから、とりあえずマルシェ行きましょうよ、と葵は促した。藤野も「そうだよね」と首から提げたミラーレスカメラに手を添えた。
 駅から階段をおりて、ちょうど青だった横断歩道を渡った。その日は天神中央公園でたくさんの雑貨店や喫茶店、人気のパン屋などが集まってのマルシェが開催されていた。葵は自分の新しい職場のことを簡単に説明し、披露宴をガーデンパーティ風にしたいというお客様や、自営業の方でマルシェ風にしたいという要望もあることから、視察という意味でも誘ってもらえてよかったと、感謝を述べた。
「実はね、御花でも、こんどの秋あたりにマルシェをやる計画で」
 藤野の発言に、葵は表情を明るくさせた。
「いいですね、それ、いいなあ、わたしもやりたかった」
 最後の一言は隠しようもない本心だったが、口にしてすぐ、しまった、と葵はうつむいた。
「葵ちゃんも来てよ。あ、でも多分週末だから、おやすみ、とれたらね」
 藤野のほうが残念そうに言うので、葵は努めて元気な声を出した。
「でもでも、藤野さんのブログでの報告とか、楽しみにしてます」
 中央公園では、入口から人で賑わっていた。すぐにコーヒーを買った。苦味まじりの熱が春の冷たさをどこかへ流していった。出店者たちのテントもそれぞれに趣向が凝らされ、色とりどりのガーランドが飾られていたり、大型犬が店番のように寝そべっていたり、パッチワークのエプロンを着けた背の高い男性がバルーンアートに挑んだりと、どちらを向いても楽しげだった。藤野はせっせとカメラを構えてはシャッターを切った。葵も端から端まで、商品やディスプレイなどをつぶさにチェックしていった。
「すごいねえ」と藤野は感心を口にして、気になる店の店主の顔も写真におさめていった。名刺も用意しておいて、御花から来ていること、秋にマルシェを計画していることも言い添えた。どの人物も藤野の言葉に耳を傾け、マルシェを開催するにあたってのノウハウや、どういう雰囲気、どういう条件なら自分も出店したいかといった意見を教えてくれた。ひとつ会話を終えるごとに、藤野は「すごいねえ、勉強になるねえ」と嬉しそうに言った。その姿に、葵も、すごいなあ、と感じた。
 マルシェに誘われたとき、葵は、気分転換になるかと期待した。もしかしたら、愚痴だって言うつもりだったかもしれない。事前に準備していたわけではないが、きっかけさえあれば、なんだって口に出しただろう。新宿で御花の名前を出したのに理解してもらえなかった。ひどいですよね! そう言って、ほんとだね、と一緒になって憤慨してもらえたら、それでいくらか心が安らいだだろう。でも、と、焼き立てのクッキーを試食する藤野を横目に、葵は反省した。
 でも、それでなにか変わるだろうか。
 愚痴を言うのは大切だ。息抜きも、ガス抜きも、生きていくには必要だ。でも、それで終わったら、なんにも変わらない。
 突然、くやしさに襲われた。
 どうしてあのとき、御花を売り込めなかったんだろう。
 新宿の社長に「もっと詳しく教えてよ」と興味を持たせ、身を乗り出させることが、どうしてできなかったのだろう。
 藤野が離れていくのは見えていたが、葵は足を動かせずにいた。
「葵ちゃん」
 名前を呼ばれても、すぐには反応できなかった。無性に悔しくて、それは自分に対する腹立ちで、自分の無力さについての苛立ちだった。赤信号にしているのは、私じゃないか。
「だいじょうぶ?」
「あ、大丈夫です。大丈夫です」
 性急な返答に、藤野は笑った。
「二回言うって、あんまり大丈夫じゃない気がする」
「ほんとに、あの、ほら、あっちのお店も見ましょうよ」
 藤野のまなざしには、まだすこし気遣う色がうかがえたものの、葵はかつての同僚の腕を取って、同じ職場の人間だったときにはできなかったくらいに距離を縮めて、あみぐるみを陳列しているテントへ足を進めた。
 それからは、楽しむ気持ちがフル稼働していた。同時に、しっかりと頭を働かせた。結婚披露宴をガーデンパーティのスタイルにして、そこにどんな仕掛けがあれば喜ばれるのか。ケーキビュッフェはある。ドリンクバーもある。でも、焼き立てパンのビュッフェは、事例になかった。ウェルカムボードにぬいぐるみを並べるのは見たことがあるが、あみぐるみは、どうだっただろう? 会場の飾り付けにテントを使ったら、どんな空間に仕上がるだろうか? なにを見ても、なにかを考えることができた。どんなところにも、楽しむためのタネは隠れていそうだった。