【第二話】サインの輪郭

 取材をどうにか切り抜けたあと、河村は、ひと気のない通路で足をとめた。
 壁に背をもたれさせて、息を吐く。長い吐息だ。
 酒でも飲みたい気分だが、勤務時間。それもまだ、朝の時間帯だ。
 従業員用通路で、自分の手をしげしげと眺めた。
 料理人というのは、表に出るものではない。そう考えて、生きてきました。
 そんなふうに答えればよかったと、ついさっきのインタビューを振り返りながら思った。
 しかしそれでは、キザすぎはしないか。
 料理人というのは、表に出るものではない。
 その思いに、嘘はなかった。
 ホテルによっては料理を呼び物にするところもあるし、料理長の名前が看板になることもある。そうした華々しさにも、河村は興味が持てない。まして、料理についてならまだしも、自分自身について語りたいなどとは思わない。
 いや、どうも、口が下手なもので。
 いっそ白旗をあげれば愛嬌もあるかもしれないが、その手の才覚も持ち合わせていない。
「取材受けるときくらい、愛想笑いでいいから笑って、気の利いたことでも言えばいいじゃない」
 離れて暮らす娘からのアドバイスを、いまさらのように思い出す。
 でもおまえ、料理人はしゃべるのが仕事じゃあない。食べる前に語りすぎれば興醒めで、食べた後の説明はごまかしになる。無論、総料理長ならば、ここで提供される食べ物、飲み物、土産物にまで目を光らせねばならず、望まれれば素材や味付けを説明できなくはないが、すべてのお客様の隣に押しかけ、詳細をつらつら吹き込むわけにもいかない。
 言い訳がましく考える一方、そのわりにあれこれしゃべった気がして、恥ずかしさが追いかけてきた。
 まさか、すっぽん鍋のことまで語るとは。

 十二年前のことだ。
 福岡市のホテルで料理長として働いていた河村のもとへ、知人の紹介で、当時の御花社長が訪ねてきた。和食メニューを一新したいと考えており、その願いをかなえてくれる人物を探している。そういう話だった。その後、社長に加え、数名の経営陣とも顔をあわせ、河村としても御花で働くことを真剣に考えるようになっていった。新規開業のホテルを歴任してきたが、そろそろ、腰を落ち着ける頃合いかもしれない、と。
 あとは自分の返事次第なのだと思い込んでいたところへ、面接を受けてほしいと連絡が来た。電話口で社長は告げた。面接を求めているのは自分の母でもあり、御花のおもてなしの根幹を司っている「女将」だと。
 ついては、なにかひとつ、料理を振る舞ってほしいんだが。
 料理、ですか。
 河村は聞いた。雲行きがあやしくなっていくのを感じた。
「なにを、作ればよろしいでしょうか?」
「なんでもいいそうだ。河村さんの得意な品をひとつ。女将も歳でね、そんなに量も食べないだろうから、なにか一品、これぞ、というものを」
 簡単に言ってくれる。
 電話を切ったあと、河村は、深く息を吐いた。
 宗高家の人間でもある女将が、直々に、面接を行うのだ。こちらの腕前がどの程度のものか、見定めるつもりなのだろう。
 それからの数日、河村は頭を悩ませた。日常的に手掛けている料理の中から選ぶつもりだったが、どれも決め手に欠けた。「一般的な和食メニューを増やしてほしい」というのが、そもそもの話だ。ならば、あまり大仰でない品がいいのかもしれないが、ありふれた味では納得させられないだろう。考えるほど、自縄自縛の深みにはまっていった。
 当初の候補をすべて捨てて「すっぽん鍋」に決めたのは、面接の二日前のこと。すぐに大分まで車を走らせ、つきあいのある養殖場で自らすっぽんを見繕った。帰りの高速道路では、雪の注意報が出ていた。
 冬が、すぐそこまで来ていた。

 ちょうど、いまごろか。
 従業員用通路で、河村は気がついた。
「あ、河村さん」
 厨房の方から岡部が近づいてきた。自分の娘と同じくらいの、三十歳になったか、ならないかの、若いスタッフだ。普段から挨拶程度の言葉は交わすが、河村の強面のせいか、岡部の態度から緊張が抜けることはない。
「聞かれました?」
 突然の問いかけに、河村は眉をひそめた。すると岡部は、しくじったふうな、弱ったような顔になった。
「あ、あの、いえ、それならいいんです」
「いいって、なにがだい?」
「いや、ほら、あの、あれですよ、今夜のご予約」
 それなら、しっかり聞いている。準備も万全だ。
「三崎さんだろ。そこまで耄碌してないよ」
 笑って答えるが、岡部はこわばった表情を崩さなかった。会釈もそこそこに去っていく若者の背中を眺めながら、河村は腰に手をあてた。
 そうだ。今日の予約のことを、取材で話せばよかった。
 和食の料理長から総料理長になり、いまでは「味の監修」が主な業務で、自分で料理を担当する機会は少ないですが、ときどき、馴染みのお客様から指名を受けて厨房に立つことがあります。それは、ほんとうに、ありがたいことです。
 喫茶コーナーに戻って、取材してくれたライターにそのコメントを付け足してこようかと考えたが、しかし、もう、次のインタビューが始まっているはずだ。
 河村はその日最初の取材対象だった。
 前の晩に娘から電話があった。お母さんの誕生日プレゼントは何にするか、という相談だった。その後の雑談のなかで取材を受けなくてはならないとこぼすと、愛想笑いと気の利いたことを、と助言された。
「あと、写真撮られるなら、あの白い帽子、かぶったほうがかっこいいからね」
 写真は撮られなかった。かぶったままだった帽子を頭からはずし、河村は厨房へ向かった。

 取材をどうにか切り抜けたあと、河村は、ひと気のない通路で足をとめた。
 壁に背をもたれさせて、息を吐く。長い吐息だ。
 酒でも飲みたい気分だが、勤務時間。それもまだ、朝の時間帯だ。
 従業員用通路で、自分の手をしげしげと眺めた。
 料理人というのは、表に出るものではない。そう考えて、生きてきました。
 そんなふうに答えればよかったと、ついさっきのインタビューを振り返りながら思った。
 しかしそれでは、キザすぎはしないか。
 料理人というのは、表に出るものではない。
 その思いに、嘘はなかった。
 ホテルによっては料理を呼び物にするところもあるし、料理長の名前が看板になることもある。そうした華々しさにも、河村は興味が持てない。まして、料理についてならまだしも、自分自身について語りたいなどとは思わない。
 いや、どうも、口が下手なもので。
 いっそ白旗をあげれば愛嬌もあるかもしれないが、その手の才覚も持ち合わせていない。
「取材受けるときくらい、愛想笑いでいいから笑って、気の利いたことでも言えばいいじゃない」
 離れて暮らす娘からのアドバイスを、いまさらのように思い出す。
 でもおまえ、料理人はしゃべるのが仕事じゃあない。食べる前に語りすぎれば興醒めで、食べた後の説明はごまかしになる。無論、総料理長ならば、ここで提供される食べ物、飲み物、土産物にまで目を光らせねばならず、望まれれば素材や味付けを説明できなくはないが、すべてのお客様の隣に押しかけ、詳細をつらつら吹き込むわけにもいかない。
 言い訳がましく考える一方、そのわりにあれこれしゃべった気がして、恥ずかしさが追いかけてきた。
 まさか、すっぽん鍋のことまで語るとは。

 十二年前のことだ。
 福岡市のホテルで料理長として働いていた河村のもとへ、知人の紹介で、当時の御花社長が訪ねてきた。和食メニューを一新したいと考えており、その願いをかなえてくれる人物を探している。そういう話だった。その後、社長に加え、数名の経営陣とも顔をあわせ、河村としても御花で働くことを真剣に考えるようになっていった。新規開業のホテルを歴任してきたが、そろそろ、腰を落ち着ける頃合いかもしれない、と。
 あとは自分の返事次第なのだと思い込んでいたところへ、面接を受けてほしいと連絡が来た。電話口で社長は告げた。面接を求めているのは自分の母でもあり、御花のおもてなしの根幹を司っている「女将」だと。
 ついては、なにかひとつ、料理を振る舞ってほしいんだが。
 料理、ですか。
 河村は聞いた。雲行きがあやしくなっていくのを感じた。
「なにを、作ればよろしいでしょうか?」
「なんでもいいそうだ。河村さんの得意な品をひとつ。女将も歳でね、そんなに量も食べないだろうから、なにか一品、これぞ、というものを」
 簡単に言ってくれる。
 電話を切ったあと、河村は、深く息を吐いた。
 宗高家の人間でもある女将が、直々に、面接を行うのだ。こちらの腕前がどの程度のものか、見定めるつもりなのだろう。
 それからの数日、河村は頭を悩ませた。日常的に手掛けている料理の中から選ぶつもりだったが、どれも決め手に欠けた。「一般的な和食メニューを増やしてほしい」というのが、そもそもの話だ。ならば、あまり大仰でない品がいいのかもしれないが、ありふれた味では納得させられないだろう。考えるほど、自縄自縛の深みにはまっていった。
 当初の候補をすべて捨てて「すっぽん鍋」に決めたのは、面接の二日前のこと。すぐに大分まで車を走らせ、つきあいのある養殖場で自らすっぽんを見繕った。帰りの高速道路では、雪の注意報が出ていた。
 冬が、すぐそこまで来ていた。

 ちょうど、いまごろか。
 従業員用通路で、河村は気がついた。
「あ、河村さん」
 厨房の方から岡部が近づいてきた。自分の娘と同じくらいの、三十歳になったか、ならないかの、若いスタッフだ。普段から挨拶程度の言葉は交わすが、河村の強面のせいか、岡部の態度から緊張が抜けることはない。
「聞かれました?」
 突然の問いかけに、河村は眉をひそめた。すると岡部は、しくじったふうな、弱ったような顔になった。
「あ、あの、いえ、それならいいんです」
「いいって、なにがだい?」
「いや、ほら、あの、あれですよ、今夜のご予約」
 それなら、しっかり聞いている。準備も万全だ。
「三崎さんだろ。そこまで耄碌してないよ」
 笑って答えるが、岡部はこわばった表情を崩さなかった。会釈もそこそこに去っていく若者の背中を眺めながら、河村は腰に手をあてた。
 そうだ。今日の予約のことを、取材で話せばよかった。
 和食の料理長から総料理長になり、いまでは「味の監修」が主な業務で、自分で料理を担当する機会は少ないですが、ときどき、馴染みのお客様から指名を受けて厨房に立つことがあります。それは、ほんとうに、ありがたいことです。
 喫茶コーナーに戻って、取材してくれたライターにそのコメントを付け足してこようかと考えたが、しかし、もう、次のインタビューが始まっているはずだ。
 河村はその日最初の取材対象だった。
 前の晩に娘から電話があった。お母さんの誕生日プレゼントは何にするか、という相談だった。その後の雑談のなかで取材を受けなくてはならないとこぼすと、愛想笑いと気の利いたことを、と助言された。
「あと、写真撮られるなら、あの白い帽子、かぶったほうがかっこいいからね」
 写真は撮られなかった。かぶったままだった帽子を頭からはずし、河村は厨房へ向かった。