ふと目が覚めて、時刻を確かめると、まだ午前五時にもなっていなかった。
もう一眠りしようかと、千鶴はまぶたをおろしたが、もう眠れないことはわかっていた。
頭のほうが一足先に覚醒していたみたいに、その日やるべき仕事のあれこれが順番に表示される。
寝室を出て、服を着替え、簡単にメイクを済ませると、千鶴は御花へ向かった。自宅と職場は運動にもならない程度にしか離れておらず、作業に入る前に、ひとつ、ふたつ、考えを整理しておきたいこともあったので、ぐるりと回り道を歩いた。
空が白みはじめていた。五月の夜明けは清澄な空気に充ちて、鳥のさえずりだけでなく、お掘の水面の揺れる音まで聞こえてきそうだった。
御花の正門から中へ入り、オフィスのある松濤館へ足を踏み入れると、フロントに宿泊リーダーの神谷が立っていた。
「おはよう。おつかれさま」
「おはようございます。早いですね。なにかありましたか?」
やや不安そうに、質問してくる。
「なんかね、目が冴えちゃったから、仕事しちゃおうと思って」
「そうでしたか」
「そっちは? 変わったことない?」
神谷は表情を変えず、視線を右、左と移動させてから「はい」と答えた。
「変わったことではありませんけど、僕が披露宴を担当させていただいたお客様から、妊娠されたってメールが来てました」
「へえ! それはうれしいね」
「はい。ですから、次はぜひご家族でお越しくださいと、返事を書こうかと思って、いま、文面を考えているところです」
よかったこと、ひとつ。
あ、さっきの朝の空気もよかったな。
娘の質問に備えて、千鶴は頭にメモを書き留めた。
「それと」神谷が思い出したように言った。「大広間のことを宿泊のお客様に聞かれたので、ご説明させていただいたんですが、いま、見られないのがすごく残念そうで、また絶対に来ますとおっしゃっていただけました」
「あー、ね、申し訳ないよね、本当に、それは申し訳ないって思う」
オフィスに入るつもりだったが、千鶴は工事中の大広間へと足を進めた。
立入禁止のシールが貼られた扉を開ける。普段とは違うにおいにも、そろそろ慣れてきた。屋根瓦を葺き替え、床を復元し、耐震補強も行った。今は壁紙の張替えが行われているところだ。スイッチを入れると、工事用の照明が大広間を照らした。
古い壁が剥がされ、内側の組子が露わになっている。大型の脚立がいくつか置かれたままで、その日の作業の始まりをじっと待っていた。
1年前には、不安もあった。1年もの長いあいだ、大広間を立入禁止にしてしまうのが、ひどく、さみしくもあった。
お客様に見ていただけない、披露宴などにもご利用いただけない、そうした事実に、申し訳無さでいっぱいになった。
「工事中は、座敷わらしも別の部屋にいるんですかね。それとも案外、工事中の部屋で楽しく遊んでるのかな」
前の日に、カメラマンの田尻が言っていたことを、千鶴は思い返した。
「田尻さん、私、座敷わらしって結局見れないままなんですけど、でもね、あのとき、田尻さんがおっしゃってたこと、すごくおぼえてて。もしも神様がここにいらっしゃるなら、子どもの姿でもなんでも、神様がいらっしゃるんだったら、その神様にも『ずっといたい』って思っていただける場所にしなくちゃって考えるんです。わかります? 神様がいるから御花が良い場所になってるんじゃなくて、御花が良い場所だから、神様もいてくださってるんだって、そういう気持ちで、いつもいなくちゃなって思うんです」
喫茶室で、コーヒーを飲みながらの会話だった。
田尻は静かにうなずいてから、こう質問した。
「あそこは、能舞台としても使われてたんですよね」
「大広間ですか? そうです」
「じゃあ、今回の工事は舞台を新しくするということで、千鶴社長をはじめ、スタッフの皆さんにとっても、その舞台でなにを行うか、これからが勝負ということになりますね。そこのポスターに書かれていましたが」
田尻は柱のひとつに視線を飛ばした。大広間の改修工事を紹介するポスターが掲示されていた。
「ずっと変わらないために、生まれ変わります、でしたね?」
「はい」
千鶴は深くうなずいた。ポスターにもあしらわれた、100年に一度の工事のためのキャッチコピーだった。
「じゃあ、生まれ変わった御花を、この古臭いカメラマンが、相も変わらずの古臭いカメラで、また、撮りに来ますよ」
早朝の大広間で思い返す、前日の出来事は、もう、ずっと遠くに感じられた。不思議なことに、田尻と初めて会った日のことは昨日のように感じられた。四半世紀も前なのに。
今、この瞬間も、すぐに思い出になって、懐かしさを帯びていくんだろう。
内側がむきだしの、きっともう二度と見られないであろう大広間の姿を前に、千鶴は思った。
次は、また、100年後。自分ではない未来の誰かが、この光景を前に、その次の100年を思うのだろう。
そう理解したとき、千鶴の意識には、娘の姿が重なって見えた。
生まれ変わったかのように成長して、素知らぬふりであたりまえの顔を見せ、そのたび自分らしさを強めていく娘の姿が。
幼い子どもの姿が大広間に見えた気がして、千鶴は一歩、前に出た。
ああ、そうか、ここも生きてるんだ。
ずっと、ここにある。
そして、ずっと、変わりつづけている。
変わるたびに、変わらない強さを獲得していく。
それがきっと、続いていく、ということなのだろう。
考えながら、千鶴は手を握りしめている。
自分だってそうだ。
きっと、誰だって、そうだ。
毎日、すこしずつ生まれ変わって、自分を生きていくんだ。
おはようございます、と小さく声が聞こえた。
はっとして、あたりを見渡すが、工事現場には自分しかいない。
「おさんぽですか」と声が続いて、フロントに立つ神谷だと気づく。宿泊のお客様が、下りていらっしゃったのだろう。
腕時計で時刻を確かめた千鶴は、片付けるべき仕事と、それにかかる時間を計算した。
うん、大丈夫。文字通り、朝飯前だ。
そう確信して、新しい一日の始まりへと歩きだしていった。
作:中山 智幸
※この物語はフィクションです。
実在の人物・出来事によく似ていますが、この物語はフィクションであり、人物名はすべて架空のものです。
ただし、御花を愛する心と、お越しいただく皆様への思いは、現実と変わりありません。

ふと目が覚めて、時刻を確かめると、まだ午前五時にもなっていなかった。
もう一眠りしようかと、千鶴はまぶたをおろしたが、もう眠れないことはわかっていた。
頭のほうが一足先に覚醒していたみたいに、その日やるべき仕事のあれこれが順番に表示される。
寝室を出て、服を着替え、簡単にメイクを済ませると、千鶴は御花へ向かった。自宅と職場は運動にもならない程度にしか離れておらず、作業に入る前に、ひとつ、ふたつ、考えを整理しておきたいこともあったので、ぐるりと回り道を歩いた。
空が白みはじめていた。五月の夜明けは清澄な空気に充ちて、鳥のさえずりだけでなく、お掘の水面の揺れる音まで聞こえてきそうだった。
御花の正門から中へ入り、オフィスのある松濤館へ足を踏み入れると、フロントに宿泊リーダーの神谷が立っていた。
「おはよう。おつかれさま」
「おはようございます。早いですね。なにかありましたか?」
やや不安そうに、質問してくる。
「なんかね、目が冴えちゃったから、仕事しちゃおうと思って」
「そうでしたか」
「そっちは? 変わったことない?」
神谷は表情を変えず、視線を右、左と移動させてから「はい」と答えた。
「変わったことではありませんけど、僕が披露宴を担当させていただいたお客様から、妊娠されたってメールが来てました」
「へえ! それはうれしいね」
「はい。ですから、次はぜひご家族でお越しくださいと、返事を書こうかと思って、いま、文面を考えているところです」
よかったこと、ひとつ。
あ、さっきの朝の空気もよかったな。
娘の質問に備えて、千鶴は頭にメモを書き留めた。
「それと」神谷が思い出したように言った。「大広間のことを宿泊のお客様に聞かれたので、ご説明させていただいたんですが、いま、見られないのがすごく残念そうで、また絶対に来ますとおっしゃっていただけました」
「あー、ね、申し訳ないよね、本当に、それは申し訳ないって思う」
オフィスに入るつもりだったが、千鶴は工事中の大広間へと足を進めた。
立入禁止のシールが貼られた扉を開ける。普段とは違うにおいにも、そろそろ慣れてきた。屋根瓦を葺き替え、床を復元し、耐震補強も行った。今は壁紙の張替えが行われているところだ。スイッチを入れると、工事用の照明が大広間を照らした。
古い壁が剥がされ、内側の組子が露わになっている。大型の脚立がいくつか置かれたままで、その日の作業の始まりをじっと待っていた。
1年前には、不安もあった。1年もの長いあいだ、大広間を立入禁止にしてしまうのが、ひどく、さみしくもあった。
お客様に見ていただけない、披露宴などにもご利用いただけない、そうした事実に、申し訳無さでいっぱいになった。
「工事中は、座敷わらしも別の部屋にいるんですかね。それとも案外、工事中の部屋で楽しく遊んでるのかな」
前の日に、カメラマンの田尻が言っていたことを、千鶴は思い返した。
「田尻さん、私、座敷わらしって結局見れないままなんですけど、でもね、あのとき、田尻さんがおっしゃってたこと、すごくおぼえてて。もしも神様がここにいらっしゃるなら、子どもの姿でもなんでも、神様がいらっしゃるんだったら、その神様にも『ずっといたい』って思っていただける場所にしなくちゃって考えるんです。わかります? 神様がいるから御花が良い場所になってるんじゃなくて、御花が良い場所だから、神様もいてくださってるんだって、そういう気持ちで、いつもいなくちゃなって思うんです」
喫茶室で、コーヒーを飲みながらの会話だった。
田尻は静かにうなずいてから、こう質問した。
「あそこは、能舞台としても使われてたんですよね」
「大広間ですか? そうです」
「じゃあ、今回の工事は舞台を新しくするということで、千鶴社長をはじめ、スタッフの皆さんにとっても、その舞台でなにを行うか、これからが勝負ということになりますね。そこのポスターに書かれていましたが」
田尻は柱のひとつに視線を飛ばした。大広間の改修工事を紹介するポスターが掲示されていた。
「ずっと変わらないために、生まれ変わります、でしたね?」
「はい」
千鶴は深くうなずいた。ポスターにもあしらわれた、100年に一度の工事のためのキャッチコピーだった。
「じゃあ、生まれ変わった御花を、この古臭いカメラマンが、相も変わらずの古臭いカメラで、また、撮りに来ますよ」
早朝の大広間で思い返す、前日の出来事は、もう、ずっと遠くに感じられた。不思議なことに、田尻と初めて会った日のことは昨日のように感じられた。四半世紀も前なのに。
今、この瞬間も、すぐに思い出になって、懐かしさを帯びていくんだろう。
内側がむきだしの、きっともう二度と見られないであろう大広間の姿を前に、千鶴は思った。
次は、また、100年後。自分ではない未来の誰かが、この光景を前に、その次の100年を思うのだろう。
そう理解したとき、千鶴の意識には、娘の姿が重なって見えた。
生まれ変わったかのように成長して、素知らぬふりであたりまえの顔を見せ、そのたび自分らしさを強めていく娘の姿が。
幼い子どもの姿が大広間に見えた気がして、千鶴は一歩、前に出た。
ああ、そうか、ここも生きてるんだ。
ずっと、ここにある。
そして、ずっと、変わりつづけている。
変わるたびに、変わらない強さを獲得していく。
それがきっと、続いていく、ということなのだろう。
考えながら、千鶴は手を握りしめている。
自分だってそうだ。
きっと、誰だって、そうだ。
毎日、すこしずつ生まれ変わって、自分を生きていくんだ。
おはようございます、と小さく声が聞こえた。
はっとして、あたりを見渡すが、工事現場には自分しかいない。
「おさんぽですか」と声が続いて、フロントに立つ神谷だと気づく。宿泊のお客様が、下りていらっしゃったのだろう。
腕時計で時刻を確かめた千鶴は、片付けるべき仕事と、それにかかる時間を計算した。
うん、大丈夫。文字通り、朝飯前だ。
そう確信して、新しい一日の始まりへと歩きだしていった。
作:中山 智幸
※この物語はフィクションです。
実在の人物・出来事によく似ていますが、この物語はフィクションであり、人物名はすべて架空のものです。
ただし、御花を愛する心と、お越しいただく皆様への思いは、現実と変わりありません。
