岡本が食事を終えるころ、携帯で誰かと会話しながら波場がレストランに入ってきた。
「はい、はい、ありがとうございます! 詳細は追っておしらせします! はい、きっとよろこぶと思います。ありがとうございます!」
 岡本が近づいていくと、波場は携帯をジャケットの内ポケットにしまいながら「よっしゃ!」と歓声をあげた。
「なにかあったんですか」と岡本が尋ねた。
「OKもらったんだよ! 今年の夏の七福神まつりでさ、特別なミュージシャンをお招きするんだ。知ってる? ナビっていうギタリスト、あ、ベーシスト、あれ、どっちだっけ」
「いや、知らないです」
「あ、そう? ああ、ごめん岡本君、ほったらかしにして」
「お客さん、転んだって聞きましたけど、大丈夫でしたか」
「大丈夫だったよ。いいね、その心遣い。ご飯終わった? じゃあ次は駅に行こうか。アンテナショップがあってさ」
 息をつく間もないテンポで、波場は次へ、次へと進んでいった。

 午前中にくらべれば、どこを見て、なにを学ぶべきなのかが、クリアに見える気がした。アンテナショップでのイベントの準備、料亭での新メニューの試食会、退職するスタッフの送別会の手配、海外からのお客様たちへの挨拶などなど。波場が主体的に動いているように見えて、実は各々の担当者に向けて適切なトスをあげているのが、わかった。
 終わりの時間が迫ってきて、波場は松濤館のカフェ「ういすてりあ」に岡本を誘った。
 テーブルを挟んで向かい合って座ると、岡本は質問した。
「毎日、こんなにいろんなことをやってるんですか?」
「いや、今日は特別だな。いつもはもう少し落ち着いてるよ」
 その返事を、岡本は疑った。波場は岡本の考えなど気にしていないふうに言葉を続けた。
「今日は岡本君がいっしょにいるから、僕も張り切った。滅多にない機会だもんな。おかげで普段の仕事じゃ見落としてたところにいろいろと気づくことができた。ありがとう!」
 元気よく礼を言って、波場は頭をさげた。
 岡本は戸惑った。
「あの、お礼を言うのは僕のほうで」
「いや、それはまだわからない」と、波場は断言した。「僕は今日の仕事を、とても満足のいく形で進めることができたけれど、岡本君は今日の経験をどう自分に取り込んでいくか、それはまだこれからだろう?だから、いつか、今日の経験がなにかの役に立つとか、きっかけになるなんてことがあったら、そのときに、少しだけ思い出してもらえたら、それで充分に嬉しいよ」
 きっかけ、ということであれば、すでに効果は出ていると岡本には思えた。仕事に対する考え方が、その日の朝までとはずいぶんと変わった気がしていたからだ。でも波場の言うとおり、それがこれからの自分にどう作用するのかは、わからない。どう活かしていくのか、真剣に考えて、取り組んでいかなくてはならない。将来を先延ばしにする理由はもはや、ひとつもない気がした。
「あの、学校に提出するレポートがあって、ひとつ質問してもいいですか?」
「おお、もちろんもちろん」
「波場さんにとって、仕事ってなんですか?」
「仕事?」早口に繰り返してから、波場は即答した。
「僕の仕事は、瞬間のお手伝いです」
 どういう意味ですか、と、岡本はすこし考えたあとで聞いた。
「御花に、いろんな方がお越しになる。多くは一度きりの来訪で、そうすると、ここで過ごす時間は、一生に一度、この一秒しかないわけです。僕は、その一秒を素晴らしい思い出にしていただきたい。極端な言い方だけど、その一秒の積み重ねしかないと、そう考えてます。ああ、でもそれはお客様に対してってだけじゃないな。人と人の交流はどれもそうだよな。岡本君が今日の僕の仕事をいいものにしてくれたのだって、同じだ」
 うん、と無言でうなずいてから、波場は言い足した。
「あなたがいて、私がいて、そこに流れる一秒をよりよくしたい」

 帰りがけ、売店前に集合していると、対月館の入口からウインドブレーカーを着た波場が出てきた。手にバケツを持っている。雪はやんでいたが、夜に向かって空気の冷たさは増していた。なにをしているのだろうかと、先生の話を聞きつつ横目で見ると、波場は排水口の蓋を持ち上げていた。あ、と岡本は午前中のことを思い出した。排水口が詰まっていたことを。
 学校に戻る前に岡本は担任の許可をもらって、波場のほうへ駆け寄っていった。
「波場さん」
「ん、おお、おつかれさま!」
 スタッフにかけるねぎらいのように、波場は返した。
「あの、すみません作業中に。僕、今日、波場さんにお会いできて、本当によかったです」
 それがお礼になるのかどうか、自信は持てなかったが、岡本は深々と頭をさげた。
 波場は、スコップ片手に「おお」と、驚きとたじろぎの混じった声を漏らした。
 それからなにかを振り絞るように、同じ言葉を元気よく「おお!」と繰り返した。

作:中山 智幸
※この物語はフィクションです。

ずっとここにある 高宗千鶴

登場人物一覧はこちら

第七話
マルガリータ
第八話
妹よ
第九話
お役に立ちます

実在の人物・出来事によく似ていますが、この物語はフィクションであり、人物名はすべて架空のものです。
ただし、御花を愛する心と、お越しいただく皆様への思いは、現実と変わりありません。

 岡本が食事を終えるころ、携帯で誰かと会話しながら波場がレストランに入ってきた。
「はい、はい、ありがとうございます! 詳細は追っておしらせします! はい、きっとよろこぶと思います。ありがとうございます!」
 岡本が近づいていくと、波場は携帯をジャケットの内ポケットにしまいながら「よっしゃ!」と歓声をあげた。
「なにかあったんですか」と岡本が尋ねた。
「OKもらったんだよ! 今年の夏の七福神まつりでさ、特別なミュージシャンをお招きするんだ。知ってる? ナビっていうギタリスト、あ、ベーシスト、あれ、どっちだっけ」
「いや、知らないです」
「あ、そう? ああ、ごめん岡本君、ほったらかしにして」
「お客さん、転んだって聞きましたけど、大丈夫でしたか」
「大丈夫だったよ。いいね、その心遣い。ご飯終わった? じゃあ次は駅に行こうか。アンテナショップがあってさ」
 息をつく間もないテンポで、波場は次へ、次へと進んでいった。

 午前中にくらべれば、どこを見て、なにを学ぶべきなのかが、クリアに見える気がした。アンテナショップでのイベントの準備、料亭での新メニューの試食会、退職するスタッフの送別会の手配、海外からのお客様たちへの挨拶などなど。波場が主体的に動いているように見えて、実は各々の担当者に向けて適切なトスをあげているのが、わかった。
 終わりの時間が迫ってきて、波場は松濤館のカフェ「ういすてりあ」に岡本を誘った。
 テーブルを挟んで向かい合って座ると、岡本は質問した。
「毎日、こんなにいろんなことをやってるんですか?」
「いや、今日は特別だな。いつもはもう少し落ち着いてるよ」
 その返事を、岡本は疑った。波場は岡本の考えなど気にしていないふうに言葉を続けた。
「今日は岡本君がいっしょにいるから、僕も張り切った。滅多にない機会だもんな。おかげで普段の仕事じゃ見落としてたところにいろいろと気づくことができた。ありがとう!」
 元気よく礼を言って、波場は頭をさげた。
 岡本は戸惑った。
「あの、お礼を言うのは僕のほうで」
「いや、それはまだわからない」と、波場は断言した。「僕は今日の仕事を、とても満足のいく形で進めることができたけれど、岡本君は今日の経験をどう自分に取り込んでいくか、それはまだこれからだろう?だから、いつか、今日の経験がなにかの役に立つとか、きっかけになるなんてことがあったら、そのときに、少しだけ思い出してもらえたら、それで充分に嬉しいよ」
 きっかけ、ということであれば、すでに効果は出ていると岡本には思えた。仕事に対する考え方が、その日の朝までとはずいぶんと変わった気がしていたからだ。でも波場の言うとおり、それがこれからの自分にどう作用するのかは、わからない。どう活かしていくのか、真剣に考えて、取り組んでいかなくてはならない。将来を先延ばしにする理由はもはや、ひとつもない気がした。
「あの、学校に提出するレポートがあって、ひとつ質問してもいいですか?」
「おお、もちろんもちろん」
「波場さんにとって、仕事ってなんですか?」
「仕事?」早口に繰り返してから、波場は即答した。
「僕の仕事は、瞬間のお手伝いです」
 どういう意味ですか、と、岡本はすこし考えたあとで聞いた。
「御花に、いろんな方がお越しになる。多くは一度きりの来訪で、そうすると、ここで過ごす時間は、一生に一度、この一秒しかないわけです。僕は、その一秒を素晴らしい思い出にしていただきたい。極端な言い方だけど、その一秒の積み重ねしかないと、そう考えてます。ああ、でもそれはお客様に対してってだけじゃないな。人と人の交流はどれもそうだよな。岡本君が今日の僕の仕事をいいものにしてくれたのだって、同じだ」
 うん、と無言でうなずいてから、波場は言い足した。
「あなたがいて、私がいて、そこに流れる一秒をよりよくしたい」

 帰りがけ、売店前に集合していると、対月館の入口からウインドブレーカーを着た波場が出てきた。手にバケツを持っている。雪はやんでいたが、夜に向かって空気の冷たさは増していた。なにをしているのだろうかと、先生の話を聞きつつ横目で見ると、波場は排水口の蓋を持ち上げていた。あ、と岡本は午前中のことを思い出した。排水口が詰まっていたことを。
 学校に戻る前に岡本は担任の許可をもらって、波場のほうへ駆け寄っていった。
「波場さん」
「ん、おお、おつかれさま!」
 スタッフにかけるねぎらいのように、波場は返した。
「あの、すみません作業中に。僕、今日、波場さんにお会いできて、本当によかったです」
 それがお礼になるのかどうか、自信は持てなかったが、岡本は深々と頭をさげた。
 波場は、スコップ片手に「おお」と、驚きとたじろぎの混じった声を漏らした。
 それからなにかを振り絞るように、同じ言葉を元気よく「おお!」と繰り返した。

作:中山 智幸
※この物語はフィクションです。

ずっとここにある 高宗千鶴

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第七話
マルガリータ
第八話
妹よ
第九話
お役に立ちます

実在の人物・出来事によく似ていますが、この物語はフィクションであり、人物名はすべて架空のものです。
ただし、御花を愛する心と、お越しいただく皆様への思いは、現実と変わりありません。