御花に戻り、宴会場での打ち合わせを見学したあと、松濤館の事務所に案内された。
 歴史ある施設、というイメージしかなかったのだが、ドア一枚隔てた事務所は、黄色やオレンジといった明るい色が使われた空間で、おしゃれなオフィスといった印象を岡本は受けた。
 波場に促されて打ち合わせ用のスペースに入ると、女性のスタッフが座っていた。
「藤野です。よろしくお願いします」と彼女は立ち上がり、挨拶を述べた。
「岡本です。よろしくお願いします」
「なに、職場体験の子?」
 あとから部屋に入ってきた眼鏡の男性が聞いた。
「あ、はい、岡本です」
「細田です。接客のほうの体験じゃなかったっけ?」
「僕がひとりまわしてもらったんですよ」紙コップに熱いコーヒーを入れて持ってきた波場が部屋中に響く声で言った。
「波場君にくっついて何を体験するっていうんだ」
「いや、僕ですよ、僕」
「波場さん?」と女性スタッフが首をかしげた。
「修学旅行生をアテンドしたことはあるんですけど、職場体験のほうは未経験だったんで、なんていうか、職場体験体験ですね! 僕も体験してるってわけです」
 細田と名乗った男性があからさまな溜息を吐いてから、「きみもたいへんだね。あとでバイト代請求するといいよ」と岡本に言った。
 さらに二人のスタッフが加わって、打ち合わせは三十分ほど続いた。複数の議題があがった。結論の出るものもあれば、さらなる検討を要するものもあったが、会議の参加者がそれぞれの意見を述べながら、同時に、ひとつの視点を共有しているように岡本には聞こえた。
 あれほど饒舌だった波場も、会議の席では全員の意見を聞くことに意識を集中させているようで、その雰囲気もまた、岡本には意外なものとして映った。議題のいくつかは波場が提案したもののようで、イベントごとのほかに、新しいお土産品の提案もあった。いったいどこまでが守備範囲なのか、岡本は質問したくなった。
「これ、あれですよ、細田さんが前に持ってきてくれた最中をヒントにしたもので」と波場は説明していた。いつの話だよ、と細田が笑ったが、波場は気にせず「うまかったんですよ、うまいものって永遠じゃないすか」と言葉を強めた。
 会議が終わると波場は「売店に行ってみよう」と促した。
 売店である「お花小路」では同級生たちが接客の体験についているはずだった。
 波場のあとについて松濤館を出ると、黒い雲から、ちいさな雪が空から落ちてきていた。
「雪!」と波場は子供みたいに声をあげた。
「昨日の大雨に比べれば、雪のほうが楽しいですね」
 岡本は落ち着いた態度でコメントした。
「え? 雨? 大雨だったの、昨日?」
 びっくりした様子の波場に、岡本は、はい、と怪訝な声でこたえた。
「そっか。いや、出張であちこちまわっててさ、ゆうべ遅くに帰ってきたんだけど、あー、そしたら、あれかな」
 売店の前で波場は方向転換し、対月館の手前でしゃがみこんだ。
「あー、やっぱりな」
 犯人につながる手掛かりを見つけた刑事のような、苦々しさと高揚感とが混じった声を波場は漏らした。
「どうしたんですか」と岡本は背後から覗き込みつつ尋ねた。ちいさな雪が載った波場の肩越しに、格子状の蓋が見えた。排水口のようだった。
「ここ、大雨のあとだと詰まりやすくて、誰かに言っとかないとな。あ、いらっしゃいませ!」
 団体客を案内していた旅行代理店の女性に波場は駆け寄っていった。雪の舞い散る下、岡本は足もとの排水口に目をやった。

 波場とともに売店に入った岡本は、慣れない接客にあたふたする級友たちを見ながら、岡本は来る夏をイメージした。自分たちが御花の祭で出店をやるとして、誰を、どこに配置するのが適しているだろう。
 誠実さはにじみでているけれど、引っ込み思案なやつ。
 無愛想だけれど、数字に関しては任せられるやつ。
 おとなしそうに見えて、ここぞというときは大胆になれるやつ。
 機転が利くけれど、ひとつのことに集中しはじめると周りが見えなくなるやつ。
「適材適所」という言葉を、それまでは、四字熟語のひとつくらいにしか考えていなかったが、慣れない場で右往左往する友人たちを見ていると、その言葉がとつぜん生命を得て、頭の中を動き回りはじめた。
 言葉にすれば四文字だけのことかもしれないが、実現しようと思うならば、相当の努力が必要になるだろう。自分ひとりの「適所」なら偶然に見つかることもあるかもしれないが、複数の人物の配置を決めるとなれば、これは、大仕事だ。ひとりひとりの適性だけじゃない。どこに、どんな仕事があるのかも把握していないといけない。
 はっとして、岡本は波場を探した。
 さっきまで近くにいたはずなのに、どこにも見当たらなかった。売店から外に出てみると、向こうからいかにも人のよさそうな男性が声をかけてきた。
「あ、きみが岡本君かな?」
 御花のスタッフだった。ネームプレートに「神谷」と書いてある。
「いま波場さんから電話があって、雪で転倒されたお客様を近くの病院までお連れしているとのことで。そろそろお昼休みだから、みんなと食事をしていてくださいとのことでした」

 食事はレストラン「対月館」に用意されていた。友人たちと午前中にどんな仕事をしたのか情報交換していると、担任がやってきて岡本の隣に座った。
「どうだ岡本、勉強になってるか」
「おもしろいですけど、なんで僕だけ別行動なんですか」
「役に立つって思ったからだよ。言ってたじゃないか、おやじさんの会社を世界規模にしたいんだって」
「え」
 たしかに、担任とふたりでの面談で、そんな大見得を切ったことはあった。でもそれは、リップサービスに過ぎず、真剣な思いとは程遠いものだった。級友たちの前で暴露されるとは思ってもおらず、岡本は赤面した。案の定、友人たちは「まじか」「野心家」「俺も雇ってぇ!」などと冷やかしの言葉を浴びせてきた。担任がそれを注意した。
「おまえらな、そんなふうに茶化すけど、目標のないところに達成なんか生まれないぞ。野心を冷やかすなんて、臆病者の遠吠えとかわらないからな」
 やめてくれ、と岡本は箸をにぎったままうつむいた。本気だったわけじゃない。面談をさっさと終わらせたくて口走った方便だったのに。後悔を募らせる岡本の脳裏に、波場の堂々とした笑顔と言葉が蘇ってきた。
 ——燃えるよね、世界相手。
「まあ、あれだよ、岡本、ちゃんと波場の教えること聞いとけよ。いろいろすごい人間だから」
 担任が「波場」と呼び捨てにしたのを、岡本は聞き逃さなかった。
「先生、あの人と知り合いなんですか?」
「ん、ああ、言ってなかったか、先生な、ここでバイトしてたことがあって、波場とはそんときからの付き合いだ。岡本のこと話したら、出張の予定早めて帰ってきてくれたんだから、ちゃんと盗めるとこ盗んどけよ」
「そうなんですか」
「あいつもさ」と担任は遠い目つきになった。「若いときはふてくされてて、あんまり楽しそうじゃなかったんだけど、いまじゃ御花の古株で、なくてはならない存在になってさ、ここだけじゃなくて、柳川全体のエナジードリンクっていうか、起爆剤っていうか」
「ああ、なんか、わかりますそれ」と岡本は同意した。
 担任は、だろ、という表情を見せた。その笑顔に岡本は、教師も一種のマネージャーなんだと理解した。生徒の言動を頭に留めておいて、適切なときに、適切なところへ導いていく。ああ、すげえな、経営とかマネジメントとかって、こういうことなんだな。そんな手応えが、胸のうちに積もっていくのを感じた。

 御花に戻り、宴会場での打ち合わせを見学したあと、松濤館の事務所に案内された。
 歴史ある施設、というイメージしかなかったのだが、ドア一枚隔てた事務所は、黄色やオレンジといった明るい色が使われた空間で、おしゃれなオフィスといった印象を岡本は受けた。
 波場に促されて打ち合わせ用のスペースに入ると、女性のスタッフが座っていた。
「藤野です。よろしくお願いします」と彼女は立ち上がり、挨拶を述べた。
「岡本です。よろしくお願いします」
「なに、職場体験の子?」
 あとから部屋に入ってきた眼鏡の男性が聞いた。
「あ、はい、岡本です」
「細田です。接客のほうの体験じゃなかったっけ?」
「僕がひとりまわしてもらったんですよ」紙コップに熱いコーヒーを入れて持ってきた波場が部屋中に響く声で言った。
「波場君にくっついて何を体験するっていうんだ」
「いや、僕ですよ、僕」
「波場さん?」と女性スタッフが首をかしげた。
「修学旅行生をアテンドしたことはあるんですけど、職場体験のほうは未経験だったんで、なんていうか、職場体験体験ですね! 僕も体験してるってわけです」
 細田と名乗った男性があからさまな溜息を吐いてから、「きみもたいへんだね。あとでバイト代請求するといいよ」と岡本に言った。
 さらに二人のスタッフが加わって、打ち合わせは三十分ほど続いた。複数の議題があがった。結論の出るものもあれば、さらなる検討を要するものもあったが、会議の参加者がそれぞれの意見を述べながら、同時に、ひとつの視点を共有しているように岡本には聞こえた。
 あれほど饒舌だった波場も、会議の席では全員の意見を聞くことに意識を集中させているようで、その雰囲気もまた、岡本には意外なものとして映った。議題のいくつかは波場が提案したもののようで、イベントごとのほかに、新しいお土産品の提案もあった。いったいどこまでが守備範囲なのか、岡本は質問したくなった。
「これ、あれですよ、細田さんが前に持ってきてくれた最中をヒントにしたもので」と波場は説明していた。いつの話だよ、と細田が笑ったが、波場は気にせず「うまかったんですよ、うまいものって永遠じゃないすか」と言葉を強めた。
 会議が終わると波場は「売店に行ってみよう」と促した。
 売店である「お花小路」では同級生たちが接客の体験についているはずだった。
 波場のあとについて松濤館を出ると、黒い雲から、ちいさな雪が空から落ちてきていた。
「雪!」と波場は子供みたいに声をあげた。
「昨日の大雨に比べれば、雪のほうが楽しいですね」
 岡本は落ち着いた態度でコメントした。
「え? 雨? 大雨だったの、昨日?」
 びっくりした様子の波場に、岡本は、はい、と怪訝な声でこたえた。
「そっか。いや、出張であちこちまわっててさ、ゆうべ遅くに帰ってきたんだけど、あー、そしたら、あれかな」
 売店の前で波場は方向転換し、対月館の手前でしゃがみこんだ。
「あー、やっぱりな」
 犯人につながる手掛かりを見つけた刑事のような、苦々しさと高揚感とが混じった声を波場は漏らした。
「どうしたんですか」と岡本は背後から覗き込みつつ尋ねた。ちいさな雪が載った波場の肩越しに、格子状の蓋が見えた。排水口のようだった。
「ここ、大雨のあとだと詰まりやすくて、誰かに言っとかないとな。あ、いらっしゃいませ!」
 団体客を案内していた旅行代理店の女性に波場は駆け寄っていった。雪の舞い散る下、岡本は足もとの排水口に目をやった。

 波場とともに売店に入った岡本は、慣れない接客にあたふたする級友たちを見ながら、岡本は来る夏をイメージした。自分たちが御花の祭で出店をやるとして、誰を、どこに配置するのが適しているだろう。
 誠実さはにじみでているけれど、引っ込み思案なやつ。
 無愛想だけれど、数字に関しては任せられるやつ。
 おとなしそうに見えて、ここぞというときは大胆になれるやつ。
 機転が利くけれど、ひとつのことに集中しはじめると周りが見えなくなるやつ。
「適材適所」という言葉を、それまでは、四字熟語のひとつくらいにしか考えていなかったが、慣れない場で右往左往する友人たちを見ていると、その言葉がとつぜん生命を得て、頭の中を動き回りはじめた。
 言葉にすれば四文字だけのことかもしれないが、実現しようと思うならば、相当の努力が必要になるだろう。自分ひとりの「適所」なら偶然に見つかることもあるかもしれないが、複数の人物の配置を決めるとなれば、これは、大仕事だ。ひとりひとりの適性だけじゃない。どこに、どんな仕事があるのかも把握していないといけない。
 はっとして、岡本は波場を探した。
 さっきまで近くにいたはずなのに、どこにも見当たらなかった。売店から外に出てみると、向こうからいかにも人のよさそうな男性が声をかけてきた。
「あ、きみが岡本君かな?」
 御花のスタッフだった。ネームプレートに「神谷」と書いてある。
「いま波場さんから電話があって、雪で転倒されたお客様を近くの病院までお連れしているとのことで。そろそろお昼休みだから、みんなと食事をしていてくださいとのことでした」

 食事はレストラン「対月館」に用意されていた。友人たちと午前中にどんな仕事をしたのか情報交換していると、担任がやってきて岡本の隣に座った。
「どうだ岡本、勉強になってるか」
「おもしろいですけど、なんで僕だけ別行動なんですか」
「役に立つって思ったからだよ。言ってたじゃないか、おやじさんの会社を世界規模にしたいんだって」
「え」
 たしかに、担任とふたりでの面談で、そんな大見得を切ったことはあった。でもそれは、リップサービスに過ぎず、真剣な思いとは程遠いものだった。級友たちの前で暴露されるとは思ってもおらず、岡本は赤面した。案の定、友人たちは「まじか」「野心家」「俺も雇ってぇ!」などと冷やかしの言葉を浴びせてきた。担任がそれを注意した。
「おまえらな、そんなふうに茶化すけど、目標のないところに達成なんか生まれないぞ。野心を冷やかすなんて、臆病者の遠吠えとかわらないからな」
 やめてくれ、と岡本は箸をにぎったままうつむいた。本気だったわけじゃない。面談をさっさと終わらせたくて口走った方便だったのに。後悔を募らせる岡本の脳裏に、波場の堂々とした笑顔と言葉が蘇ってきた。
 ——燃えるよね、世界相手。
「まあ、あれだよ、岡本、ちゃんと波場の教えること聞いとけよ。いろいろすごい人間だから」
 担任が「波場」と呼び捨てにしたのを、岡本は聞き逃さなかった。
「先生、あの人と知り合いなんですか?」
「ん、ああ、言ってなかったか、先生な、ここでバイトしてたことがあって、波場とはそんときからの付き合いだ。岡本のこと話したら、出張の予定早めて帰ってきてくれたんだから、ちゃんと盗めるとこ盗んどけよ」
「そうなんですか」
「あいつもさ」と担任は遠い目つきになった。「若いときはふてくされてて、あんまり楽しそうじゃなかったんだけど、いまじゃ御花の古株で、なくてはならない存在になってさ、ここだけじゃなくて、柳川全体のエナジードリンクっていうか、起爆剤っていうか」
「ああ、なんか、わかりますそれ」と岡本は同意した。
 担任は、だろ、という表情を見せた。その笑顔に岡本は、教師も一種のマネージャーなんだと理解した。生徒の言動を頭に留めておいて、適切なときに、適切なところへ導いていく。ああ、すげえな、経営とかマネジメントとかって、こういうことなんだな。そんな手応えが、胸のうちに積もっていくのを感じた。