焼き鳥の屋台の横で休憩をとっていた岡部も武将隊の演舞を遠目に眺めていた。
「すみません」
 Tシャツ姿の女性が声をかけてきて、岡部は笑顔で「はい」と答えた。女性の隣には、十歳くらいだろうか、男の子が立っていた。野球帽をかぶり、細い手足がTシャツとショートパンツからのびている。
「昨年、こちらに宿泊させていただいたものですが」
「そうでしたか。それは、ありがとうございました」
「それで、そのときに、うちの息子が、あの、あちらの、屋根のほうにのぼって、ご迷惑をおかけしました」
 女性は頭をさげた。四十代半ばといったところだろうか。生真面目な性格を思わせる顔立ちで、たしかに見覚えがあった。
「ああ、宮崎様ですね。おぼえています。タケルくん。こんにちは」
 すらすらと名前まで蘇ってきたのは、その少年が工事の足場を伝って大広間の屋根にのぼった事件のおかげだ。前年の七月のある早朝に子供の泣き声が聞こえてきて、その出どころを探すととんでもない場所にタケルがいた。
「その節は本当に、ご迷惑をおかけしました」
「いいえ。タケルくん、おっきくなりましたね。おいくつですか」
「九歳です」とタケルがしっかりとした言葉で返した。
 九歳にしては大きいほうなんじゃないだろうかと、岡部は推測した。
 屋根まで上がって下りられずに泣いていたタケルを、ゼネラルマネージャーである賢一郎が助けたとき、赤子でも抱くみたいに軽々と抱っこしていなかっただろうか。自分の記憶を参照して、そうではなかったことを思い出した。建物を囲んだ足場の中に階段を見つけて、賢一郎と手をつないでおりてきた。危なっかしいところはなかったはずなのに、岡部の記憶の中ではスーパーヒーローよろしく屋根の上まであっというまにのぼっていった賢一郎が、男児を抱きかかえて地上に帰還する場面ができあがっていた。
「それで、あのとき助けていただいた方に御礼をと思って探しているんですが、すみません、私もあのとき動転していて、お名前もうかがっていなくて」
「ああ、それならうちの宗高という者です。わざわざありがとうございます。事務所にいると思いますから、ご案内しましょうか?」
 恐縮する宮崎とその息子であるタケルを連れて、岡部は松濤館へ戻った。お客様連れで裏口から入るわけにもいかず、建物をまわりこむルートで進んでいく。そのとき、空の端のほうが黒ずんできているのが目に入った。
「夕立ち、来るかもしれませんね」と岡部は誰にともなく言った。
 背後からは、武将隊のための激しい音楽が流れつづけていて、ひときわ大きな重低音がゴロゴロと聞こえてきた。
 雷みたいだ、と岡部は思った。
 実際、それは雷鳴だった。

       芝生ガーデンで雷鳴に気づいた人は少なかった。空を見た人はいたものの、頭上はまだ晴れが優勢で、雲は増えつつあったが、雨を心配するには足りなかった。
 岡部は宮崎親子を連れて松濤館に入った。ロビーのソファで二人に待っておいてもらい、事務所をのぞいてみたが、賢一郎の姿はなく、スタッフに尋ねても居場所を知る者はいなかったので、携帯から内線番号を押して連絡を試みた。そのとき、建物内まで震えるほど大きな雷鳴がとどろいた。
 事務所にいた数名のスタッフが一斉に窓へ視線を飛ばした。
「すごい音」と誰かがおびえるように言った。
 賢一郎への電話はまだ、つながらなかった。

     焼き鳥の屋台の横で休憩をとっていた岡部も武将隊の演舞を遠目に眺めていた。
「すみません」
 Tシャツ姿の女性が声をかけてきて、岡部は笑顔で「はい」と答えた。女性の隣には、十歳くらいだろうか、男の子が立っていた。野球帽をかぶり、細い手足がTシャツとショートパンツからのびている。
「昨年、こちらに宿泊させていただいたものですが」
「そうでしたか。それは、ありがとうございました」
「それで、そのときに、うちの息子が、あの、あちらの、屋根のほうにのぼって、ご迷惑をおかけしました」
 女性は頭をさげた。四十代半ばといったところだろうか。生真面目な性格を思わせる顔立ちで、たしかに見覚えがあった。
「ああ、宮崎様ですね。おぼえています。タケルくん。こんにちは」
 すらすらと名前まで蘇ってきたのは、その少年が工事の足場を伝って大広間の屋根にのぼった事件のおかげだ。前年の七月のある早朝に子供の泣き声が聞こえてきて、その出どころを探すととんでもない場所にタケルがいた。
「その節は本当に、ご迷惑をおかけしました」
「いいえ。タケルくん、おっきくなりましたね。おいくつですか」
「九歳です」とタケルがしっかりとした言葉で返した。
 九歳にしては大きいほうなんじゃないだろうかと、岡部は推測した。
 屋根まで上がって下りられずに泣いていたタケルを、ゼネラルマネージャーである賢一郎が助けたとき、赤子でも抱くみたいに軽々と抱っこしていなかっただろうか。自分の記憶を参照して、そうではなかったことを思い出した。建物を囲んだ足場の中に階段を見つけて、賢一郎と手をつないでおりてきた。危なっかしいところはなかったはずなのに、岡部の記憶の中ではスーパーヒーローよろしく屋根の上まであっというまにのぼっていった賢一郎が、男児を抱きかかえて地上に帰還する場面ができあがっていた。
「それで、あのとき助けていただいた方に御礼をと思って探しているんですが、すみません、私もあのとき動転していて、お名前もうかがっていなくて」
「ああ、それならうちの宗高という者です。わざわざありがとうございます。事務所にいると思いますから、ご案内しましょうか?」
 恐縮する宮崎とその息子であるタケルを連れて、岡部は松濤館へ戻った。お客様連れで裏口から入るわけにもいかず、建物をまわりこむルートで進んでいく。そのとき、空の端のほうが黒ずんできているのが目に入った。
「夕立ち、来るかもしれませんね」と岡部は誰にともなく言った。
 背後からは、武将隊のための激しい音楽が流れつづけていて、ひときわ大きな重低音がゴロゴロと聞こえてきた。
 雷みたいだ、と岡部は思った。
 実際、それは雷鳴だった。

       芝生ガーデンで雷鳴に気づいた人は少なかった。空を見た人はいたものの、頭上はまだ晴れが優勢で、雲は増えつつあったが、雨を心配するには足りなかった。
 岡部は宮崎親子を連れて松濤館に入った。ロビーのソファで二人に待っておいてもらい、事務所をのぞいてみたが、賢一郎の姿はなく、スタッフに尋ねても居場所を知る者はいなかったので、携帯から内線番号を押して連絡を試みた。そのとき、建物内まで震えるほど大きな雷鳴がとどろいた。
 事務所にいた数名のスタッフが一斉に窓へ視線を飛ばした。
「すごい音」と誰かがおびえるように言った。
 賢一郎への電話はまだ、つながらなかった。