杉原歌澄とバンドメンバーが御花に到着したのは、正午ちょうどだった。シニアマネージャーの波場が運転するワンボックスカーが松濤館前に停まり、賢一郎が一同を出迎えた。
「ようこそいらっしゃいました」
「やあ、おひさしぶりです小川さん、じゃなくて」
「宗高です。ようこそ」
 車から降りてきたのは賢一郎と同世代の、恰幅のいい男性だった。名を安西といい、音楽事務所の社員で、杉原歌澄のマネージャー。賢一郎が東京で働いていた時代に親交を結んでいたのが、今回のライブにつながった。
「うちの杉原です」
 群青色のワンピースを着た女性が安西の隣に立った。
「はじめまして。杉原歌澄です。このたびはお招きいただいて、ありがとうございます」
 ささやくような挨拶とともに彼女はお辞儀した。二十代前半という若さと不釣り合いなくらい落ち着いた佇まいで、背が高く、伏し目がちな表情には高貴な印象さえ宿っていた。
 これであんなに力強い歌をうたうのだから、本当にすごいな。
 何度も聴いた歌声を耳に蘇らせながら、賢一郎も挨拶を返した。
「それから、サポートの佐藤と渡辺です」
 車から降りてきたばかりの男性に賢一郎は意気揚々と語りかけた。
「ナビさん! 去年、ご宿泊いただきましたね」
 着古したTシャツに薄緑色のサングラスをかけた渡辺は、ナビの名でも知られるベーシストで、前年にプライベートで御花に宿泊していただいたことを賢一郎はよくおぼえていた。
「どうも、その節は。まさかここで演奏できるなんて思わなかったな」
 しわがれた声で笑って、ナビは「よろしく」と握手を求めてきた。しっかりと応じた後で賢一郎はあたりを確認した。御花スタッフの岡部がナビの熱烈なファンであることを知りながら、一年前の夏にひどい対応をしてしまったことを思い出したからだ。ナビと握手したと知られたら、抜け駆けと責められても言い逃れできない。
「はいはい、じゃあ、お荷物のほうをお部屋までお持ちしましょうか」車のバックドアを開けた波場が号令よろしく声をかける。「機材と楽器はですね、大広間のほうに控室をご用意していますからそちらに私がお持ちします。皆さまには最高の演奏をお願いしますね。もうね、本当に最高の舞台ですから、それはもうまちがいなく最高なんですから。あ、先にお見せしましょうか、大広間、そうしましょう」
 一階ロビーを進みながら賢一郎は岡部の姿を探した。ナビが来ることを自分からは伝えていないが、スタッフに配布した資料にサポートミュージシャンとしてナビの名前も入れておいた。憧れの人物が再びここに来るのだから、そわそわしているだろう。
「あ、俺、トイレ」
 ナビが皆から離れてトイレへ向かった。先行ってるぞと安西が告げ、全員が料亭の前を右へ折れた。
 同じころ、芝生ガーデンでの作業を終えた岡部が松濤館に戻ってきた。職員用通路から一階の厨房に入った岡部は、ペットボトルのお茶を冷蔵庫から七本、取り出した。両手がいっぱいになったが、手伝いを頼める相手は見当たらない。夏祭りの日はレストランの営業は休みだが、その日は昼間の結婚披露宴が二件入っていたので、厨房は普段どおりのてんやわんやだった。
 ペットボトルを落とさないよう厨房の騒音を背に廊下に出ると、目の前に誰かが立ちはだかった。
「あのさ、大広間ってどっち」
 ナビだ。
 え、え、え、と頭の中でとぎれとぎれの悲鳴があがる。なんで、なんでナビさんが? 陽射しを浴びすぎて幻覚が見えてるんだろうか? 混乱の隙間からこぼれたのは、間の抜けた声だった。
「な、な、ナビさん」
「お、俺のこと知ってんの? うれしいなあ」
「し、知ってます、大ファンです。あの、昨年もお越しいただきましたよね」
 しどろもどろに言いながら岡部は腰のあたりをよじらせた。両手で抱えたペットボトルが落ちそうになる。危ない、と思う一方で、右手が勝手に前に出そうになる。握手を求めるチャンスだ。ほら、急げ、急げってば。自分を叱咤する声が耳元で鳴り響くが、従えない。なぜなら自分はいま勤務中で、抱えているのは武将隊の皆さまへの差し入れだ。
「で、大広間どっち? あっち?」
 ナビが指し示すほうが正解だったので、岡部は「そうです」と態勢を整えながらうなずいた。
「そう、ありがとう」
「いいえ、そんな」
 なにかもっと気の利いたことを、と焦るのだが、悪い夢を見ているときに似たもどかしさが募り、うまい言葉が出てきてくれない。
「あ、あの、本日もご宿泊ですか?」
「ああ、明日さ、ここで演奏させてもらうんだ」
「え? あの、杉原」
「ああ、歌澄ちゃんのサポート。アコースティックで、久々にウッドベースなんだよ。というわけでまたまたよろしく」
 明日? 演奏? ウッドベース? 脳裏をクエスチョンマークが埋めていく。ポスターにナビの名前はなかった。なかったよな? 誰も知らなかったってことか? でもライブの企画はゼネラルマネージャーが担当で、サポートについても知っていたんじゃないか? それなら教えてくれてもよさそうなものなのに、どうして黙ってるんだ? GMこと宗高賢一郎の顔を浮かべながら岡部は身をよじるように考えて、考えて、わからないことばかりで、自分がどこへ行こうとしていたのかもわからなくなった。

     杉原歌澄とバンドメンバーが御花に到着したのは、正午ちょうどだった。シニアマネージャーの波場が運転するワンボックスカーが松濤館前に停まり、賢一郎が一同を出迎えた。
「ようこそいらっしゃいました」
「やあ、おひさしぶりです小川さん、じゃなくて」
「宗高です。ようこそ」
 車から降りてきたのは賢一郎と同世代の、恰幅のいい男性だった。名を安西といい、音楽事務所の社員で、杉原歌澄のマネージャー。賢一郎が東京で働いていた時代に親交を結んでいたのが、今回のライブにつながった。
「うちの杉原です」
 群青色のワンピースを着た女性が安西の隣に立った。
「はじめまして。杉原歌澄です。このたびはお招きいただいて、ありがとうございます」
 ささやくような挨拶とともに彼女はお辞儀した。二十代前半という若さと不釣り合いなくらい落ち着いた佇まいで、背が高く、伏し目がちな表情には高貴な印象さえ宿っていた。
 これであんなに力強い歌をうたうのだから、本当にすごいな。
 何度も聴いた歌声を耳に蘇らせながら、賢一郎も挨拶を返した。
「それから、サポートの佐藤と渡辺です」
 車から降りてきたばかりの男性に賢一郎は意気揚々と語りかけた。
「ナビさん! 去年、ご宿泊いただきましたね」
 着古したTシャツに薄緑色のサングラスをかけた渡辺は、ナビの名でも知られるベーシストで、前年にプライベートで御花に宿泊していただいたことを賢一郎はよくおぼえていた。
「どうも、その節は。まさかここで演奏できるなんて思わなかったな」
 しわがれた声で笑って、ナビは「よろしく」と握手を求めてきた。しっかりと応じた後で賢一郎はあたりを確認した。御花スタッフの岡部がナビの熱烈なファンであることを知りながら、一年前の夏にひどい対応をしてしまったことを思い出したからだ。ナビと握手したと知られたら、抜け駆けと責められても言い逃れできない。
「はいはい、じゃあ、お荷物のほうをお部屋までお持ちしましょうか」車のバックドアを開けた波場が号令よろしく声をかける。「機材と楽器はですね、大広間のほうに控室をご用意していますからそちらに私がお持ちします。皆さまには最高の演奏をお願いしますね。もうね、本当に最高の舞台ですから、それはもうまちがいなく最高なんですから。あ、先にお見せしましょうか、大広間、そうしましょう」
 一階ロビーを進みながら賢一郎は岡部の姿を探した。ナビが来ることを自分からは伝えていないが、スタッフに配布した資料にサポートミュージシャンとしてナビの名前も入れておいた。憧れの人物が再びここに来るのだから、そわそわしているだろう。
「あ、俺、トイレ」
 ナビが皆から離れてトイレへ向かった。先行ってるぞと安西が告げ、全員が料亭の前を右へ折れた。
 同じころ、芝生ガーデンでの作業を終えた岡部が松濤館に戻ってきた。職員用通路から一階の厨房に入った岡部は、ペットボトルのお茶を冷蔵庫から七本、取り出した。両手がいっぱいになったが、手伝いを頼める相手は見当たらない。夏祭りの日はレストランの営業は休みだが、その日は昼間の結婚披露宴が二件入っていたので、厨房は普段どおりのてんやわんやだった。
 ペットボトルを落とさないよう厨房の騒音を背に廊下に出ると、目の前に誰かが立ちはだかった。
「あのさ、大広間ってどっち」
 ナビだ。
 え、え、え、と頭の中でとぎれとぎれの悲鳴があがる。なんで、なんでナビさんが? 陽射しを浴びすぎて幻覚が見えてるんだろうか? 混乱の隙間からこぼれたのは、間の抜けた声だった。
「な、な、ナビさん」
「お、俺のこと知ってんの? うれしいなあ」
「し、知ってます、大ファンです。あの、昨年もお越しいただきましたよね」
 しどろもどろに言いながら岡部は腰のあたりをよじらせた。両手で抱えたペットボトルが落ちそうになる。危ない、と思う一方で、右手が勝手に前に出そうになる。握手を求めるチャンスだ。ほら、急げ、急げってば。自分を叱咤する声が耳元で鳴り響くが、従えない。なぜなら自分はいま勤務中で、抱えているのは武将隊の皆さまへの差し入れだ。
「で、大広間どっち? あっち?」
 ナビが指し示すほうが正解だったので、岡部は「そうです」と態勢を整えながらうなずいた。
「そう、ありがとう」
「いいえ、そんな」
 なにかもっと気の利いたことを、と焦るのだが、悪い夢を見ているときに似たもどかしさが募り、うまい言葉が出てきてくれない。
「あ、あの、本日もご宿泊ですか?」
「ああ、明日さ、ここで演奏させてもらうんだ」
「え? あの、杉原」
「ああ、歌澄ちゃんのサポート。アコースティックで、久々にウッドベースなんだよ。というわけでまたまたよろしく」
 明日? 演奏? ウッドベース? 脳裏をクエスチョンマークが埋めていく。ポスターにナビの名前はなかった。なかったよな? 誰も知らなかったってことか? でもライブの企画はゼネラルマネージャーが担当で、サポートについても知っていたんじゃないか? それなら教えてくれてもよさそうなものなのに、どうして黙ってるんだ? GMこと宗高賢一郎の顔を浮かべながら岡部は身をよじるように考えて、考えて、わからないことばかりで、自分がどこへ行こうとしていたのかもわからなくなった。